朱子のやったことはルターに似ていると言えないかな。
伝統と権威を纏った既存の孔子や神に対する理解を排除して、
より直接的な正しい理解を自ら新しく打ち立てようとする、
「真理への誠実さ」のようなものはキリスト教だけでなく儒教にもあった。

ただ、キリスト教においては
教会や聖書よりも直接的な神の被造物、つまり宇宙や自然から神の意志を伺う手段として
自然科学が生まれたわけだが
それと同じことは儒教では起こり得なかったし、現に起こってない。
いくら孔子の考えを正しく理解しようとしても、
人間である孔子の意思は文献の解釈という手法でしか伺い得ないからな。