古文漢文板の質問スレ4 [転載禁止]©2ch.net
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体言でも枕とか宝みたいな
独立性の高い「物」っぽいものは「とす」なきがする
それと王とか可とか日本語では動作と感じられないやつ
反対に「にす」はいかにも動作っぽいイメージ
まあきちっとした基準はないと思う 返信ありがとうございます。
私が実例を見てきた限りでは、「トス」は意動用法で用いられることが多いので【認識(〜と見なす)】、
あとは【任命】ですかね。「〇〇ヲ将トス」みたいな。
ただ、「トス」でも「ニス」でもいけそうな例として、先に挙げた
「曲肱而枕之」肱を曲げて之を枕とす
の他にも、
「斬竹而薪之」竹を斬りて之を薪にす
これなんかは「ニス」ですね。
明確な基準はないんですかね…。 「『トス』『ニス』使い分け」とかで検索しても、
「上手なトスの仕方」とか「ニスの塗り方」とかしか出て来ないんですよね。 答えになるかわかりませんが、日本古典文法の格助詞の問題ではないでしょうか。
おおざっぱには以下のようであると思います。
と(‐す)
変化の結果
に(‐す)
変化の結果
言い換え可能だと思います。よって明確な基準はないように思えます。
わたしなんかは「トス」で訓んで変じゃなければ「トス」にしています。 単に現代日本語の感覚では
変形度で使い分けるかな
薪は加工度が高いので
薪にする
肱(腕のこと)は曲げるだけだから
枕とする
が現代人のネイティヴ感覚かと
したがって材料集めて枕にするなら
その際は、にす、が合うかもしれない
それから
にす、は働きかけのプロセスに焦点があって
とす、は成果物そのものの提示
にも感じられる
まあコーパスで傾向分析したら論文になるかも 10年ほど前と思いますが、万葉から川柳まで解説している古文の本を手に入れました。
よく覚えているのが、額田王の紫野の歌や、衣通姫と軽皇子のことが最初の方に解説されていました。
現代語訳が巻末の取り外し出来る冊子にまとめられており、参照しやすくなっておりました。
3度の引っ越しで紛失し、本の名前も失念しており、自分では探すことができません。どなたか御存知ありませんか?
確か山野野衾さんかあやめさんが参考書のことであげられていたことがあると思います。漢文でも同じ出版社から同じスタイルのものがあると紹介もされていました。
数年前から時々思い出しては探しているんですが、自力では探せません。よろしくお願いします。 >>320
日本語の助詞「と」「に」の違いについては次のような指摘があります。
「と」=間接的・引用的
「に」=直接的・客観的
すでに江戸時代に指摘されています。(冨士谷成章『あゆひ抄』)
○今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春べとなりにしものを 万葉集10・1835
引用歌の「春べと」は「春べに」でも通じますが、「春べと」だと
「かげろうの燃える春とイウフウニなる」という意味で、「と」に
よって分断される意が強くなります。このような用法から「と」は
単語だけでなく句をも引用して受けることができます。
「肱を曲げて之を枕とす」も、
(肱は枕ではないが)肱を曲げて「枕だ」とみなしてそうあつかう
と解釈できます。
「竹を斬りて之を薪にす」は、竹という材料をそのまま薪にするから主観的解釈が入らず客観的表現だと言えるでしょう。 また、
「会う」という動詞では
○友と会う / ○友に会う
というように「と」「に」ともに言えますが
「ケンカする」という動詞では
○友とケンカする / ×友にケンカする
というように、「に」では言えません。
これは、「に」が、動作の向けられる対象を表す用法を持つからです。
このことから考えると、「する」「なる」も、
○敵を味方とする / ○敵を味方にする
○彼は政治家となった / ○彼は政治家になった
のように、「と」「に」両方言えるようだが、「と」は、引用的用法で、
上接体言が「する」「なる」の内容を示し、それを変化の結果の相として
とらえているのに対して、「に」は、上接体言が動作の向けられる対象を
表し、「する」「なる」の動作の向けられる目標を変化の結果としてとら
えていると考えられます。
ちなみにこれらのことは日本文法大辞典に載っていることです。 324様、325様、327-8様、非常に分かりやすい説明をありがとうございました。
漢文を一人でシコシコ学習してると、どうしても解けない謎に出くわすんですよね…。
長年の疑問が氷塊しました。心より御礼申し上げます。 疑問が固まってchまずいですね。
やはりこの際は「氷解」しないと >>302
ありがとうございました。
性の今の実力では、『ハヤウマキタリテイワク』
『センテイニシタガイタテマツル』と読んでしまいます。
慣れれば読めるかも…。orz >>336
どっちも送り仮名が「自ラ」になるので(現代仮名遣いでは自ら・自ずからと書き分けるが)
区別のためにオ・ミを付してる。 >>337 ありがとうございます。
こういうのは古文(漢文?)用語で何か名前付いているんでしょうか? 質問です。
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/HanFeizi/IntelligenceEasyProcessDifficult.html
この文なのですが、
武公は胡を攻めることを、この臣に隠していて
胡を騙すためにも武公は臣の殺した、と解釈して
いいのでしょうか。
そうでないと辻褄が合わない気がするのですが。 >>339
まぁ、その解釈で正しいのだが……
(胡征伐の真意については、この臣に隠していた、というよりは、
武公一人、もしくはごく一部の腹心だけが知る秘密だった,ということだろう)
書き込む前に、もう少し「てにをは」を推敲することをお勧めしたい。 >>340
ありがとうございます。気になっていたので安心しました。
質問です。
汝使吾君以馬故殺人、聞於四隣諸侯、(『説苑』正諫 )
「汝(なんじ)わが君をして馬を以ての故に人を殺し、四隣(しりん)の諸侯に聞えしむ、」
http://njet.oops.jp/wordpress/2008/10/19/晏子あんし君を諫む/
ですが、ここは「人を殺さしめ、」が適当と考えました。
いかがでしょうか。この訓読は岩波全書「漢文入門」と同じです。 >>341
「人を殺し、四隣(しりん)の諸侯に聞えしむ、」
の訓読で問題ない。
もともと日本語は、
このように並列的に句を並べるとき、最後の句に付いた助動詞が
そこまで全体を統括することがある。
その文だと、「しむ」の受ける範囲が
・人を殺し、「四隣の諸侯に聞え」しむ ではなく、
・「人を殺し、四隣の諸侯に聞え」しむ という構造になってるわけ。
まぁ最近は流行らない言い方なので、
「人を殺し」に「しむ」を付けた方がわかりやすいのは確かだが
ついていなくて、間違いというわけではない。 >>342
ご回答、基本的に良いと思いますが、
「『人を殺し』に『しむ』を付けた方がわかりやすいのは確かだが
というと、初学者どちらでもよいと誤解していまうおそれがあります。
「使」は使役の助辞で、再読文字と違い訓読のさい二度読むものでは
ありません。
やはり、漢文訓読のさいには、「人を殺し、四隣の諸侯に聞えしむ」
でなければなりません。
逆にお聞きしたいのは、>>341さまは、「人を殺さしめ」と読んだ場合、
「聞於四隣諸侯」はどう訓読するおつもりだったのでしょうか。 https://goo.gl/lnuJ9f
これ普通にショックだよね。。
本当じゃないよね? >>342>>343
ありがとうございます。
非常に勉強になりました。 .
.
東京都三鷹市 元ニコ生主の莉里子(男の娘)です (整形後) http://i.imgur.com/SLcz3dS.jpg (整形前) http://i.imgur.com/zPvxpx5.png
不倫・浮気・密会・不道徳な行為は著名な小説家でしている人がいるので真似しちゃう池沼です http://i.imgur.com/vZeIuO3.png
■2015年2月 釣りニコ生主コジコジと沖縄旅行でオフパコ
2015年2月2日-3日...沖縄旅行でセックス/やり捨てされ逆ギレ
2015年2月4日.........莉里子の父親から電話があって脅されたとコジコジに放送で暴露される
2015年2月6日.........リスカ画像UP
2015年2月9日.........ツイ全消し/コミュ爆破逃亡
http://imgur.com/a/58WQC
■2016年6月 バンドマン兼ニコ生ツイキャス配信者と密会 その3日後に穴るセックス〜継続中
http://imgur.com/a/Lx8o2
●早川莉里子●土井莉里子●土井寧々●土井剛●早川剛●星崎●りりこ●りりこし●にゃんぱす
●ね子●にゃこ●みんち●めう●ねね●猫又●剛
※名古屋ゲイ風俗ホストとも穴ルの関係※ 卑弥呼の呼び方で思うのですが、漢文にて「呼」は名詞ではなく
「呼ぶ」という動詞の意味として用いることが殆どと思いますが如何でしょうか。
その場合だと、卑弥呼という名前は本来は「ひみ」が訛った「ひめ」と
いう意味になるかと思いますが。
西暦400年頃の古墳時代の万葉カナ文字でも読み方はひらかな読みは変っていませんから、
"姫と呼ぶ人"と解釈するのか正しいのではないかと思うのですが。
ヒメクコもまた同様で、「ひめ(の)こ」と呼ぶ人、という意味になるかと思いますが
間違っていますでしょうか。 >>350
間違っています
語順が変です
それに「呼」という漢字にそういう意味がありません https://goo.gl/YdPog5
この記事本当なの?
普通にショックなんだけど。。 正宗白鳥がウェイリー訳の源氏物語を読んで原文より面白かったという逸話を
小林秀雄が話していて興味をもったのですが、最初に読むならサイデンステッカー訳
の方がよいとも聞きました。どちらがよいと思いますか? ウェイリーの英訳は、源氏物語の平安朝的風土をヨーロッパの宮廷に移しかえていたり、
省略が多かったり、逆に心理描写の説明の付加などがなされたりと、英語文化圏の人々が
理解しやすいようにかなり改変されています。
原文に忠実なのはサイデンステッカーのほうです。
どちらが良いかは、英訳を読む目的次第でしょう。 「ある男が流鏑馬を習おうと思い立ち、まず弓を習い始め、次に乗馬を習ううちに老人となり、流鏑馬を習うのに十分な時間も体力もなくなってしまった」
というような故事を子供のころに聞いた覚えがあるのですが、調べてみてもこの様な話が見つからず歯がゆい思いをしています
ご存知の方がいましたら詳細を教えてください >>358
徒然草188段に、同工異曲のエピソードがある。
ただしこちらは流鏑馬じゃなくて、法師だが。
(法師になるために、まず説教してまわる移動手段として馬を習うことから始め、
仏事の後の余興に必要だろうと謡曲を練習し、この二つにハマってるうちに年取って
肝心の経典の勉強をするひまなく終わった男の話)
思うに、この徒然草の一節を間違って教わったか、あるいは記憶違いして覚えているか、ではなかろうか。
というのは、あなたのおっしゃる内容だと、単なる
「どんくさい人が、習い事をして、結局ものにできなかった話」
でしかないわけで(弓も乗馬も、流鏑馬には直接必要ななスキルである)
格別な教訓も面白みもないように思われるから。わざわざ書き残すような話には思えないんだ。
とか言って、私などよりずっと学識ある人がさらりと出典を示してくれるかも知れず、
そのときは、間違い呼ばわりしたことを正直にお詫びする所存。 >>359
回答ありがとうございます。そのお話がまさに探していたものです。
ご指摘の通り、私の記憶違いでした。確かに>>358の筋書きでは教訓も面白味もないですね。
長年のモヤモヤが貴方のお陰ですっきりしました。本当にありがとうございます。 「他に比べて劣っている、欠陥している」という意味の古語をできるだけ多く教えてください
そういう意味を持つ漢字でもいいです >>361
おくる おろか くだる けおとる さがる たちおくる
たちくだる たぢろく つたなし はづ みぢかし ここにいる人は漢文を知っているようで知らないのだね。
卑弥呼の回答を読んでよくわかった。
聞くだけ無駄だった。 古文の形容詞で早いを意味する
「とし」
「はやし」
の意味の違いとか用法の違いとかニュアンスの違いとかを教えて下さい。 >>364
ほとんど同じように使われる気がするが、ニュアンスとしては
・「とし」の対義語…「にぶし」
・「はやし」の対義語…「おそし」
あと、「はやし」は「時間的に前の時点」を表すことができる。
現代語で言うなら「早く起きる」みたいな使い方。
例「朝がらす早くな鳴きそ(万葉集3095)」…朝がらすよ、こんな早い時間に鳴くな
一方「とし」は、こういう使い方はできないようだ。あくまでも動的。 >>363
というか2ちゃんで聞くなよ・・・
2ちゃんは頭動いてない人の為の
掲示板だから
w 質問です
豈非大愚乎。
みたいな文は
あらずや
あらざるや
で迷うんですけど何か基準ありますか
今の訓読の基準みたいな本が
あればいいのですがありますか? >>369
上の語が終止形の時は「や」、連体形の時は「か」と一般に言われています。
ただ、「豈〜乎」は「アニ〜ンヤ」と読むのが普通。
漢文の基本的な訓読法は国語便覧にも載っています。 すみません、論語のような漢文だったと記憶してるのですが、習いごとが上達する者としない者の違いとして、恥ずかしがらずに皆に言った方が良いというような趣旨の話の出典は何でしょうか?
探してもなかなか見つからず困っています。
よろしくお願いします! 軍師 「北朝鮮で戦争がおこった場合の対策を考える!」
◎「80パーセントの確率」で、「北朝鮮軍」は、
「地下にトンネル」を掘り、ソウルを襲撃すると予測しました!
「韓国軍」は、トンネルに「大量の水」を、流し込んで、
「北朝鮮軍兵士」を溺死(できし)させて下さい!(水ぜめの計)
〇都市部や村に、「防空壕(ぼうくうごう)」や「核シェルター」を
大急ぎでつくって下さい!(人海戦術作戦)
北朝鮮が、ミサイルを全部発射したら、「156万人の韓国市民」が
死亡すると、「軍事専門家たちが予測しています!
〇リュックに食料を「3日分」入れて、
備蓄(びちく)しておきましょう!
(カンヅメ・おやつ・カンパン・水・ビニール袋・タオル・軍手)
◎「日本の原子力発電所」に、ミサイルが飛んでくる確率が高いです!
2基の原発(センダイ・ゲンカイ原発)をはやく停止して下さい!
お願いします!!お願いします!お願いします!
〇「韓国軍」と「アメリカ軍」は、話し合いをして下さい!
「コンビネーション攻撃」のシュミレーションをして下さい!!
◎韓国と「日本」で食料が不足する恐れがあります!
(戦争は、「大量の食糧」を消費します!)
「ゴルフ場」や「空き地」や「公園」に「畑」をつくり
「ジャガイモ」を植えましょう!
軍師 質問があります
私は友人のいらぬ手出しで仕事を一つパーにされてしまったのですが
その責任を取らせようとすると
『成事は説かず、遂事は諌めず、既往は咎めず』と孔子の言葉を持ち出して
責任を取ろうとしません、挙句今回は残念だったが古の賢人に学ぶことはキミの今後にもプラスにもなるとまで言い出す始末
同じ論語で言い返してやりたいのですが、どんな言葉が妥当でしょう? 孔子は弟子は多かったが、結局世に用いられず、無職で生涯を終えた。 俺は教えを求めて漢文は読まない
何じゃその理屈とか唐突感を味わう。
孝婦が冤罪で死刑になったかと思ったら
力点はおまえんところの門のサイズかよ!とか 質問です。
大日本帝国憲法第三条は
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
とあります。
これを平仮名で読みを書くと、
天皇は神聖にして侵すべからず
となります。
ヘ → べ
ス → ず
と読みますが、これらの規則性を勉強したいのですが、どこかに書いてありますか?
いままでは何となく読んでいました。 規則性も何も、濁点を記載する習慣がなかっただけ
法令に濁点が付されるようになったのは昭和2年
昭和20年の終戦の詔書にも濁点は書かれていなかった 地元の人の業績を調べているのですが、なにぶん漢文でさっぱり分かりません。
以下の文章はどのような意味なのでしょうか?
年十六初仕為大番遭於国家興学為国学諸生
ちなみに、下級武士として内政に活躍した人です。
予想では「十六歳にして初めて藩に仕えて、領地を警護の為に回った。また、多くの学生の為に国学を盛んにした」
という所でしょうか? 国家をめぐりて、国学諸生の為に学を興す
と読んだのかな?冒頭の16歳を考えると、いささか唐突ですね
後続の文章があるなら、
国家興学(の気運)に遭い、国学諸生(の一員)と為る
もありかも… >>380
なるほど…どうもその方が妥当な読み方ですね。
別の書籍を見つけて読んでみた所、「大番(士)」になり、与力の上の200石程度の官僚になっていたようです。 之に因って来る所の人って「所因之来之人」でいいのですか? 因之所来之人?
所来因之之人?
この2つは少し意味が違うよね? 行為の名詞化は、名詞化する動詞を所に直結させる例が多い
所因之来で、来る所、と読ませるのはイレギュラーだと思う
因之而所来之人がいいのでは?
>>384
所来因之は所由来之
同じく「之によって来る所」と読め、意味も違う >>338
送り仮名に対して「迎え仮名」と呼ばれています。 群の異体字が気持ち悪い
ヘンとツクリを上下に分ける書き方は、結構多いんじゃない? 「す・さす・しむ」の下に尊敬語がなければ絶対使役だと書いてある参考書がいくつかあるのですか、これは正しいですか?
手元の辞書には尊敬語と共に用いられることが多いとしか書いていなかったり、
「(帝が)ひそかに右方の歌を詠ぜしむ。」のしむを尊敬と解釈している本があります。 >>390
> 「す・さす・しむ」の下に尊敬語がなければ絶対使役だと書いてある参考書がいくつかあるのですか、これは正しいですか?
基本的に正しいと考えてください。単独の「す・さす・しむ」が出てきたら、迷わず使役と解釈し、進んでいきましよう。
> 手元の辞書には尊敬語と共に用いられることが多いとしか書いていなかったり、
ことばは生き物です。時代と使う人によって、その姿形を変えます。
いつの時代も「言葉の乱れ」はあるし、「破格の言い方がクセになってる人」も存在します。
生き物として揺れ動く「ことば」の法則たる文法に「100%」はあり得ないのです。
あり得ない以上、いささか腰の引けた書き方になるのも、やむをえないことでしょう。
ただ、100%はあり得ぬものの、「でも普通は、こうでしょ」という最大公約数的「正しさ」は存在します。
(それが存在しなかつたら、そもそも「ことば」が社会で通用しません)
「す・さす・しむ」は、単独なら使役……というのは、これらの助動詞がネイテイブで使用されていた時代の
最大公約数的(しかもかなり絶対の)「正しさ」です。ですから、それを信じればよいのです。例外に振り回されるのは時間と労力のムダ。
> 「(帝が)ひそかに右方の歌を詠ぜしむ。」のしむを尊敬と解釈している本があります。
出典のテキスト批判が今できないので、何とも言えませんが、
天徳歌合の評か何かですかね? >>391
詳しくありがとうございます。
最後のものは駿台文庫の古文読解教則本にのっていて、天徳内裏歌二十番とありました。 >>390
正確に言うと、正しくありません。
ただ、高校生の学習や大学受験レベルでは、そういう言い方も教育的配慮としてありだと思います。
そもそも、「す・さす・しむ」の原義は「使役」で、身分の高い人は何かをするとき、自分でしないで誰かにやらせることが多く、
それを言い表すのに「す・さす・しむ」(使役)を用いていたところ、次第に自分でする場合にでも「す・さす・しむ」を用いるようになり、その結果、「す・さす・しむ」に「尊敬」の意味が生じたなどと言われています。
だから、もと「使役+尊敬」(せたまふ・させたまふ・しめたまふ)という形の尊敬語が接続する用法が多いのです。
しかし、いっぽうで、ごく少数ながら「す・さす・しむ」が単独で尊敬の用法を示す例も見受けられます。以下に例を挙げます。 (つづき)
〇御門、おほきにおどろかせ給て、かんぜ【しめ】、きこしめすことかぎりなし。(『宇津保物語』俊蔭)
〇前の右馬頭参り給うて、「長き夜のつれづれをこそ思ひやり給ふれ」とて、何となき世の中の物語をせ【させ】けるに、(『松陰中納言物語』)
〇三朝浄土の大師等、哀愍摂受したまひて、真実信心勧め【しめ】、定聚の位に入れ【しめよ】。(親鸞、正像末和讃)
これらは、ごく少数で珍しいものです。ご提示の天徳歌合せの用例もその一つでしょう。
高校生の学習に頻出の平安和文などでは、「す・さす・しむ」が「尊敬」を表すのは、やはり尊敬語が接続する場合です。
大学受験の参考書は実用性を重んじるので、厳密な言い方をしていないのでしょう。
むしろ、お持ちの辞書の表現のほうが学問的には良心的といえるのではないでしょうか。 上代における「誰がどういう理由で裁かれ、判決はこうだった」ということが分かりやすくまとめられている参考文献等どなたかご存知無いでしょうか?
よろしくお願いいたしますm(__)m http://www.toshin.com/center/2013/kokugo_mondai_3.html
解答番号28の@です。
赤本の解答です。
@不適 「蓬」は比喩であって「自然の描写」ではない。また、本文は、すでに
二人が心を通わせた後の場面から始まっているので、「女君に心をひかれるいきさつ」
は明らかでない。
↑
いきさつなんて、本文に過去形で、筆者が書けば成り立つ話じゃないんですか?
逆に、
「本文は、すでに二人が心を通わせた後の場面から始まっているので」がなければ
納得なのですが。
これ1つに2時間40分かけました。教えていただけないでしょうか?お願いします。
これを知ることで他もわかるような気もしますので。
完全にミスでマルチポストですいません。 >>399
> いきさつなんて、本文に過去形で、筆者が書けば成り立つ話じゃないんですか?
で、この「本文」のどこに、心ひかれた「いきさつ」が「過去形」で書いてあるというのさ? >>400
この「本文」のどこにも、心ひかれた「いきさつ」が「過去形」で書いてあるわけではないので、
「女君に心をひかれるいきさつ」 は明らかでない。
と、赤本に説明してあればよろしかったのですけれど。 >>402
うーん、だから。
> この「本文」のどこにも、心ひかれた「いきさつ」が「過去形」で書いてあるわけではないので、
> 「女君に心をひかれるいきさつ」 は明らかでない。
と
>本文は、すでに二人が心を通わせた後の場面から始まっているので、
>「女君に心をひかれるいきさつ」は明らかでない。
って、言ってること、そうも違うか? >>403
ああ、何か、>>399の言いたいことが分かってきた気が。
赤本の解説
「また、本文は、すでに二人が心を通わせた後の場面から始まっているので、
「女君に心をひかれるいきさつ」は明らかでない。」
は、正しくは、こうあるべきだ、と言いたいんじゃないか。
「また、本文は、すでに二人が心を通わせた後の場面から始まっており、かつ、
それ以前の出来事についての回想描写も見当たらないので、「女君に心をひかれるいきさつ」は明らかでない。」
「心を通わせた後の場面から始まっている」≠「心を通わせたころの記述が存在しない」ってことか。 「男であれず、女になれない」という表現を目にしたのですが、
あれず、は一般的な言い回しですか?
ある、の可能動詞、あれるを想定していると思うのですが、個人的には違和感を覚えます
そもそも、ある・ありを助動詞れる・るで活用する例はありますか?
あられる、という尊敬表現も普通は、あらせられる、とすると思うのですが… >>405
あら・れる 【有られる】
( 連語 )
〔「れる」は尊敬の助動詞。「いらっしゃる」より少し改まった言い方〕
「ある」「いる」の尊敬語。 「お子さまが二人−・れる」 「生物学者で−・れる」
(三省堂『大辞林』) >>405
「男でありえず」は、あまり目にしないように思います。
同じ意味としては「男たりえず」のほうがよく見ます。 歴史的仮名遣いの読みの質問です。
「逢坂(あふさか)」は「オーサカ」と読むのに、
「葵(あふひ)」は なぜ「オーイ」と読まないんでしょうか。
よろしくお願いします。 あふぐ→あおぐ(仰ぐ・扇ぐ)
あふる→あおる(煽る)
あふ→あう(会う)
かふ→かう(買う)
‥とかあるからなぁ 昔の音韻なんてホントはわからん。
なにしろデータがないんだから。
それでも、なんとかして音韻に迫りたいやつらが研究はしている。
だが、いくらそれらしいことを主張しても、それは仮説でしかない。
ルールには例外がある。
例外の理由はわからないものがある。
そんな時には覚えておくしかない。
それだけのこと(プフ風 まあそうだよなあ
現代日本語アクセントの権威が講演で
似たこと言ってた 川端康成の山の音に、
おずれ、と、をずれ、の発音の違いの話が出て来るけど、
いずれはこんなのも、おそらくわからなくなるわけだ。
タイムマシンが欲しいな(笑 >>410
元が「あふひ」、今は「あおい」とデータが揃っているのに、昔の音韻はわからんとは見当違いなレスだ >>414
そもそも、文字を今のように読んでいるかどうかはわからん、って話だよ。
言葉があった。
支那の漢字を借りて万葉仮名をつくった。
万葉仮名から、カタカナ、ひらがなをつくった。
…
と言う歴史を考えてみろ。
音韻と文字の齟齬は言語の永遠の課題と言ってもいいだろう。 平安かな文学華やかなりし頃は、発音をかなに写しただけだろ
あふひはafufiみたいな‥
齟齬はその後出てくんでやんしょ
ima waを、いま「は」と書く現代のように >>408
そもそも、奈良時代では、
「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、「fa・fi・fu・fe・fo」でした。
ですから、「あふひ」は、そのころ、おそらく「afufi」と発音されていた。
ところが、平安時代になって、語頭以外のハ行音がワ行音に変わるという現象が起こります。
これをハ行転呼音といいます。
そこで、「あふひ」は「auwi」となったらしい。(平安時代のワ行音は「wa・wi・u・we・wo」でした。)
つぎに鎌倉時代ごろになるとワ行の「wi」とア行の「i」が混同統合されア行の「i」になります。(すでに奈良時代にヤ行のイはありませんでした。)
この地点で「あふひ」は「aui」と発音されていたはずです。 (つづき)
そうこうしているうちに、中世、室町時代になると日本語に長音が現れます。
平安時代に「au(アウ)」と発音されていたものが「ǒ(オー)」という長音に変化したのです。
これは、「 au → ao → ǒ 」と変化したと考えられています。「u」が「a」と「u」の中間の調音位置の「o」になり、その後「a」「o」が融合して、普通の「o」より口を大きめに開いて発音する「ǒ」になりました。
以上の変化を「逢坂」に当てはめると次のようになります。
「あふさか(逢坂)」:「afusaka」→「ausaka」→「aosaka」→「ǒsaka」
しかし、「葵」は、
「あふひ(葵)」:「afufi」→「auwi」→「aui」→「aoi」→ ×
と「aoi」で変化をやめてしまった。
つまり、葵は途中までで音韻変化をやめ、「ǒi」とならず、「aoi(アオイ)」で定着し現在に至ったというわけです。
それで、現代では「オーイ」と読まず「アオイ」と発音するのです。
さて、ではなぜ葵は音韻変化を途中でやめてしまったのでしょうか?
この続きは気が向いたら書きます。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000061/files/510_46839.html
古代国語の音韻に就いて
日本の場合、文字ができる以前から、言葉はあった、と推測できる。それを原始日本語と仮に呼ぼう。
次のステップとして、原始日本語が話されながら、支那語を読み書きする期間もあった、と推測できる。
次に、萬葉假名の発明。これは完全な表音文字とは考えられない。たとえば、
○ひんがしののにかぎろいのたつみえてかえりみすればつきかたぶきぬ、
と言う柿本人麻呂の和歌を、一例として、
△東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
のように書き記す。
例えば、助詞「の」は文字づらとしては現れていないだろう。全くの漢文でもない。
そして我々に残されていたのは△である。△と、解析された時代にも残る和歌の特性を考慮して、○を構成したわけだ。
なぜ●つきかたぶきぬ、であって、▲つきにしわたる、ではないのか?
これは調べていないけれど、多くの人が●のほうがいいと思ったから、レベルの話ではないかと思う。
同じような表現を探して比較検討し、結論を出すこと、も無論あるだろう。
次に、カタカナとひらがなが発明される。これらは表音文字だから、このへんでやっと、音韻と文字を対応させられる
ようになったわけだ。
この時点から、原始日本語になんらかの影響が出て、原始日本語が変質する可能性もあるかも知れない。
ただし、現代では、ゐやゑの表音文字は使われなくなったことを考えると、はたして、すべての音を、カタカナとひらがなで
表記できるようになっていたか、は定かではないと思う。
例えば現在の日本語でも、鼻濁音を表現する表音文字は存在しない。
また、カ音を幾通りかの文字を使って書き分けているのだけれど、それらは本当にカ音なのか。
ゐやゑを考えると断定は迷う。
偶然に残っていた文献しか、てがかりがないのだから、データとしてはそれだけで推理し、仮説を立てるしかない。
あとは様々な知識を、推理の補強に使うくらいか。
以上、したがって、音韻に関して、真摯な態度でのぞむならば、断定は非常に困難であることがわかるだろう。
橋本さんは、かなり断定している。自説に自信を持っているからだと思うけれど、
それはあくまでも仮説であることを、我々は忘れてはならない。 日本語は比較言語学の手法の多くが
利用できないので苦しい
昔ほど一致していたっていう原理の根拠も薄弱 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています