古文漢文板の質問スレ4 [転載禁止]©2ch.net
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これを売りつけるためにそれ繰り返してるの?
214名無氏物語2016/10/22(土) 22:40:57.14ID:Ug9Ejxow
正字正假名變換ソフト
契冲、http://www5a.biglobe.ne.jp/~keichu/index.htm 「契冲」は平成五年五月に發賣を開始して、今年は二十五年目に當ります。この間の御愛用に心より御禮申上げます。
「契冲」の使用で「正字・正かなが止められなくなつた」との御感想を頂くのも有難く、
もしかして、販売目的ではなく、こっちの方かな→「契冲」の使用で「正字・正かなが止められなくなつた」 「さりともと頼めし甲斐も…」とあるのですが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形だとしたらカ変・サ変動詞以外には連用形接続です。
ですから、その上の「頼め(訳が「期待した」となっていたのでマ行四段?)」は連用形の「頼み」になりますよね?
なぜ「頼め」なのでしょうか?? これは男性の和歌で、「さりともと頼めし甲斐もなきあとに世のつねならぬながめだにせよ」
(訳:そうは言っても(逢えるだろうと)期待した甲斐もなく(私が)死んだ後には、
せめて並一通りではないもの思いだけでもしてください)とあったので「期待させた」の意味の下二段「頼む」は変だなぁと思ってたのですが、
「そうは言っても(あなたを)(逢えるだろうと)期待させた(あてにさせた)…」を言い換えただけかもしれないですね 「頼む(下二段)」は受け身というイメージがあったのですが「約束する」という意味もあったのですね、メモっときますφ(.. ) たいてい、恋愛の話では、男性が主語の場合は下二段の「頼む」が多いように感じます。 ありがとうございました
筆者の主張が最も表されている一文を書きぬきなさい、という問題で
私は一番初めの、『大事を思ひ...』
だと思います。いい線いってますでしょうか?
http://i.imgur.com/hA6tnYM.jpg >>503
これはそのプリントをくれた先生に訊いたほうがいいですね。
こういう問題の解答のコツとかキモってやつがあるはずです。
国語の先生にきくのが一番です。 神令犬献上天令猫卭下地
皆さんならこれをどう訳しますか? >>507
前後関係がないとなんともね。
どっから持ってきたの?
神っていう語を単独で名詞扱いするのはあまり見かけないから神令犬が主語かもしれないし、
エロっていう漢字もあまり見かけないから、なにかの助字の古い形かもしれないし。
結果としては猫が地面に降り立ったのかな、とは思うけど、結局、前後関係がないと判別つけかねます。 神、犬、猫はそれぞれ単独の名詞です
前後の文は「Aさんは犬と猫を生んだ」「神令犬献上天令猫卭下地」「下地はBさんを生んだ」と言った内容でこの更に前後の文はこれとは全く関係ない内容です ↓新字バカAKIの新たな恥www
http://itest.2ch.net...kobun/1498835597/l50
0285 名無氏物語 2017/08/28 03:39:59
ID:k28DOoZk
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。
「書體」という語の使いかたが違うよ。
そういう場合には「字體」といいなさい。
なぜかわかる?
字體が言語の構造とどう關係あるのかね?
説明してもらえる? >>509
猫は下地(地上)を卬(あおぐ)?
仰ぐのは普通天では? 意味的には却「しりぞける」がやっぱり良さそう
前文の献の対になるし…
犬は上天に差し上げる、猫は下地に棄ててしまえ、てな感じでは? 狡兔死して走狗烹らる
のもとの文は、対句で平仄も揃ってるの? こんな文章があるらしい。
颛顼乃命重犂典司祝融重献上天以属神犂抑下地以属民以絶上下之通以规三辰之行 『路史』
難解なのでわかりませんが、「抑」ですかね? 「下地を抑える」の場合、「献上天」はどういう意味になるんでしょうか? 「こそ〜已然形」で逆接の意味を持たす「逆接強調法」になる場合があると習ったんですが、「こそ〜已然形」の係り結びの強調とはどこをどう見て見分けたらいいんですか?
西行法師の「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」という和歌について調べるのが課題です。
この詩の場合逆接になることは分かってるんですが、何もヒントがない状態でどこからそう判断を導き出せるのかが知りたいです >>518
道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
訳:道辺にきれいな水が流ていた柳の木陰。ほんの少しだけって思って立ち止まったんだけどね…(なかなか動く気になれないよ)。
「こそ…已然形、〜。」=「已然形だけど、〜。」
の(〜。)が省略されています。
現代語にもこれは残ってる。例えば「わが子であれば、愛しこそすれ、恨むなどできない。」 もうすぐ初めてのセンター模試
今回古典は捨てていいですかね?
とりあえず国立の医学部医学科志望です。 >>520
好きにすればいいと思うよ。しょせん模試。本番じゃないんだから。
本番で「捨てる」ことは(国立医学部志望である以上)不可能なので
それまでにきちんと対策とっとけば、いいんじゃないの。 >>519
省略されてるのは分かってるんですけど、初めてその和歌を見たときに、ただの係り結びの強調だけではなく、逆接の意が加わり(つい長居してしまった)の部分が省略されてるって判断することはできないんですか?
「こそ 立ちどまりつれ(立ち止まったのだ)」のようなただの強調ではないというのがどうやったらこの和歌から読み取れるか?ってことです >>522
ほんのちょっとの間だけと思って、を受けたからじゃないかな。 『丘傑字偉跱,吳興烏程人也。十四遭母喪,以熟菜有味,不嘗於口。
歳餘忽夢見母曰:「死止是分別耳,何事乃爾荼苦。汝噉生菜,遇蝦蟇毒,靈牀前有三丸藥可取服之。」
傑驚起,果得甌,甌中有藥,服之下科斗子數升。丘氏世保此甌。大明七年,災火焚失之。』
yahoo知恵袋で↑を訳してくれと言ってる人がいて、それで訳されたのが↓ですがどう思いますか? 解釈がちょっとおかしい気がするんですが
丘傑は字を偉跱といい,吳興群の烏程の人である。十四歳で母の死に逢い,加熱した食品は味が有るといって(嫌い)口にしなかった。
1年余りして、突然夢に母を見、母は言った「死んでも、あなたの分別を止めさせるだけです。お前は(体に良いはずの)茶が苦いとは何事でしょう。お前は生の食品を食べたので,蝦蟇の毒に当たりました。
靈前に三つの丸藥がありますから、取ってこれを服用なさい」傑が驚いて起きると,果たして甌(容器)があった,その中に藥があり,それを服用するとオタマジャクシを數升も下した。
丘氏は代々、この薬入れを保存した。大明の七年,火災に在って失ってしまった。 死止是分別耳。何事乃爾荼苦の部分はかなり怪しいですね
死して止まるはこれ分別のみ
人は死んでも分別は残るものなのですね(母の気持ち)
何事乃爾荼苦は訓読が難しいのですが、
どうしても、そのように、苦い葉っぱを食べたりするのですか(母が息子を気づかう気持ち)
的な意味になると思います。荼は茶ではなくニガナです
何事、なんぞ事とせん
乃爾、すなはちかくのごとく
荼苦、名詞でトクと読みました >>526
死んだのは母でしょう?
分別は「好き嫌い」です。
「死するもこの分別を止めんとするのみ」
「(私は)死んだとしても、ただ、(おまえの)この好き嫌いだけはやめさせたいのです。」 また、「止まる(とどまる)」は、「終わる、休む、働くのをやめる」という意味で
「留(とどまる)」とは意味が違うと思います。
結果、「死して止まる」は「死んで無くなる(働きをやめる)」になってしまう。
「死するも(世に)留まる」とは違う。 分別、フンベツ、思慮・知覚・意識の意味で読みました。
母親は霊魂の存在を聴いてはいたけれど、半信半疑だったのでしょう。
ところが実際に死んでみると、霊魂は存在し、生前と同じように知覚があり、
息子と交信さえできる。その衝撃に対する感想ですね。
死止是分別耳。:死してとどまるは、これ、分別のみ
死んで肉体は朽ち果てたのに、意識だけは残っているのね。
死者への追悼文に「魂而有霊:死者に知覚があるのならば」という常套句がありますが、
それと同系統の文章だと思いました。 >>529
つづき
分別(ブンベツ?)好き嫌いについては、あまり賛同できません。
そもそも、私の解釈では、息子は「好き嫌い」で偏食をしているのではなく、服喪の行動
として、意図的に食を減んじているのです。
上では、「どうしても、そのように、苦い葉っぱを食べたりするのですか」と便宜的に訳しましたが、
母親も当然、息子が自分の為に度外れた粗食を敢行していることは、理解しています。
母親としては、一刻も早く普通の食事に戻して欲しいのですが、服喪の中断は中華思想では、
これ以上ない不孝となるので、母も制止はしませんし、強情な息子が勧告を受け入れないこと
くらい、母は承知しているでしょう。だからこそ、薬の紹介へと文章が繋がっていくのでは
ありませんか? >>530
つづき
止まる=留まるはイレギュラーだとの指摘は確かかもしれません。
とはいうものの、
「死するもこの分別を止めんとするのみ」においても、是を指示代名詞として扱うのはどうでしょう?
普通は此でしょうし、もっと言えば、人称代名詞の汝あたりの方がいいとさえ思えます。
「死するも止めんとするは、これ、分別のみ」なら、「あり」かも知れませんが・・・
少々、想像力が逞しすぎますが、私の解釈はこんなところですね。 まとめ
新字バカAKIのマヌケ発言その1
>白川静…漢文学者、中国史家
>つまり中華思想の持主。日本を中国の属国にしたくてそう言ってるんでしょ。
>結局、繁体字大好きなのは、中華思想にとりつかれて、日本を見下している連中。
新字バカAKIのマヌケ発言その2
>世界中の傲慢な華人(漢民族)や、香港等でも使われている「中国国語」の文字が繁体字。
新字バカAKIのマヌケ発言その3
>繁体字というのはシナ文字のこと。
>朝鮮でも日本でも、繁体字はあくまで「古代文字」に過ぎない。
新字バカAKIのマヌケ發言その4
>語法や文法を効率よく説明するためには、既存の文章を探してくるのではなく、ピンポイントで説明できる文を自分で作ってあげるのが一般的です。
新字バカAKIのマヌケ發言その5
>"以"に他動詞の意味はありませんよ。前置詞と副詞の意味です。
新字バカAKIのマヌケ發言その6
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。 >>507に回答を下さった方、ありがとうございました
また訳し難い文があったのでご意見お聞かせください
有山名曰去痓南極果北不成去痓果
この文にはどんな訳が考えられるでしょうか? 山があり、その(山の)名前は去痓。
南の最果てにあり、その山を北に移すことは叶わず、結局去痓のままだった。
天帝様が山の位置を決めようとでもした創世記みたいな神話的な話なのかな。 山有り、名づけて去?という
(病気を治すために)南より極めて北を果たす(地球を一周した)も、
病を去ること成らず、(山は発見できず)、果つ(死んだ)
私ならこう解釈しますね。
地球が丸いことを知っているとしたので、新しい文章でないと困ります。 漢文で果の字が「(地の)果て」や「死ぬ」の意味で使われることはあるんでしょうか?
ちなみにその文は、世界は平らな大地で中華がその中心に位置しているという考えが常識だった時代に書かれたものなので、
地球一周の観念が著者にあった可能性は低いと思われます >>538
「果」のそういう使い方は日本独自の用法(いわゆる国訓) >>538
>>539
地球一周はさすがに言い過ぎました。
果たすは「とげる」の字義で読んでいるつもりです。極=果で「きわめる、つくす、とげる」かな・・・
果=死は国訓でしたか・・・
となると、私的には、痓(病?)を去るの果を成さず、ですね。
(どんな病をも治してしまう)去痓という山がある(らしい)
南から北へと(あらゆる手段を)尽くしてみたが、
(去痓山は発見できず)病を去るという成果は達成できなかった。
こんな感じでどうでしょう? あと、確認ですけど、この文章はホントに中国人の手によるものですか?
初見の時から、どうにも和臭を感じているのですが・・・ 少し調べたら、全く頓珍漢でした
山海経の中の一節ですね。
大荒之中,有山名曰去痓。南極果,北不成,去痓果。
さまざまな注釈の中でも難解とされているそうです。
結論は、読めません、です。 >>536-542
ありがとうございました
参考にさせていただきます
またご意見をいただきたいのですが
有神人面無臂両足反属于頭上
この両足反属于頭上の意味がいまいちわかりません
神がいて、人面で腕がなく、両足は反っていて頭上に属する
つまりこういうことでしょうか?
じゃなくて、
有神人面無臂両足反属于頭上
人の顔をした神がいて、
腕と両足が(あるべき場所に)なくて、かわりに頭の上に、腕と両足がついていた、
ってことだと思います。
新字バカAKIのマヌケ発言その1
>白川静…漢文学者、中国史家
>つまり中華思想の持主。日本を中国の属国にしたくてそう言ってるんでしょ。
>結局、繁体字大好きなのは、中華思想にとりつかれて、日本を見下している連中。
新字バカAKIのマヌケ発言その2
>世界中の傲慢な華人(漢民族)や、香港等でも使われている「中国国語」の文字が繁体字。
新字バカAKIのマヌケ発言その3
>繁体字というのはシナ文字のこと。
>朝鮮でも日本でも、繁体字はあくまで「古代文字」に過ぎない。
新字バカAKIのマヌケ發言その4
>語法や文法を効率よく説明するためには、既存の文章を探してくるのではなく、ピンポイントで説明できる文を自分で作ってあげるのが一般的です。
新字バカAKIのマヌケ發言その5
>"以"に他動詞の意味はありませんよ。前置詞と副詞の意味です。
新字バカAKIのマヌケ發言その6
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。
これらのマヌケ發言についての言ひわけまだ?? 無が臂と両足の両方に掛かっているという発想はありませんでした
ご意見ありがとうございます 無ABという文で無がAB両方に掛かっている例が同じ書の中で他にあるのかを調べてみたら1ヶ所だけ状如牛〜無角一足というよく似た記述がありましたが
これは角と足1本がない(3本足)ではなく、角がなく1本足と解釈されてるようですね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Wu-Renchen-Shanhai-jing-guangzhu-Kui.jpg
無臂両足もやはり無は臂だけに掛かっているのでしょうか >>535
山海經には譯本が存在しますので、ご自分でお探しになつては。 実は訳本は持っているので、それを使ってここで遊びたいのが本心でござる。 >>551
では、訳本では「有神人面無臂両足反属于頭上」がどう訳されているのか教えてください。 >>547
無目鼻(目も鼻もない)
無吏民(役人も民もいない)
無禮信(礼も信もない)
無服食(着るものも食べるものもない)
みたいなかんじかな。 今年から大学のゼミで古文書を読み始めたものです。ゼミで読んでいるのは主に鎌倉時代の漢文なのですが、日本の漢文は中国のものとは勝手が違ってなかなか読むのが難しいのが現状です。こういった日本の漢文書を解説している書籍などありましたら教えていただけないでしょうか >>556
そういう書籍がみつかるまでは、原文を紹介して、この板で解説を求めてはいかがです?
古文に詳しい人なら、日本人の書いた漢文のほうがむしろ読みやすいかもしれませんよ。 候文は擬古文に含まれるのか否か果たしてどちらでせう哉? >>525
二ケ月近く前なので、もう見てないかもしれないけれど。
儒教では親の死に際しては喪に服して食事を減らし、
杖にすがるくらい痩せ衰えるのが孝行として賛美されました。
これも、母親の喪に服して調理された美味い料理を食べなかったという話です。
好き嫌いで偏食の話ではありません。
「止」は助辞で「ただ」
「乃爾」は「乃如此」と同じ意味です。
「荼苦」は「荼」も「苦」も「くるしむ」です。
だから「荼苦」で「くるしむ」です。
「分別」は「住む世界がわかれる」ということです。
死止是分別耳 死はただ是れ分別のみ
何事乃爾荼苦 何事か乃ち爾(しかく)荼苦せん
汝噉生菜 汝 生菜を噉(くらい)
遇蝦蟇毒 蝦蟇の毒に遇えり
靈牀前有三丸藥 靈牀前に三丸の薬あり
可取服之 取りて之を服すべし
死は、ただ住む世界がわかれただけです。
このように苦しまなければならないことは何もないのです。
(死とは、ただ住む場所が別れただけで、
服喪で美味いものを断ち生ものばかりを食べて
痩せ衰えなければならないような悲しいことではない。)
お前は生ものを食べて蝦蟇の毒にあたってしまいました。
靈牀の前に丸薬が三つありますから、
これを飲みなさい。 >>547
おそらく、角と一足では一字と二字で対にならず、
無角と一足が二字同士で対になるからではないでしょうか。
もし「無角足」なら、角と足が一時同士で対になるので
「角も足も無い」という意味になると思います。
これが正しければ、「無臂両足」も「無臂」と「両足」が対で、
「腕がなく二本足」という意味になります。 ご意見ありがとうございます
新たな質問なのですが
有獸焉其狀如菟而鳥喙鴟目蛇尾見人則眠名曰犰狳其鳴自䚯見則螽蝗為敗
この文の其鳴自䚯見則螽蝗為敗はどう訳すべきでしょうか? >>562
後半部分
敗は「わざわい」です。螽蝗は「いなご」です。
見則螽蝗為敗
見(あらわ)るれば則ち螽蝗敗(わざわい)を為す
犰狳が現れると、その地域に蝗害が起きる。
前半部分の「其?自?」はわからなかったので、
現代中国語訳をみたら、
「?出的叫声便是它自身名称的?音」
「鳴き声がそれ自身の名前の音になっている」
ということでした。
ワンワンと鳴くからワンワンという名前になったみたいなことです。
?は叫と通用し、叫は現代中国語で、
我 叫 名前
のように名のるときの動詞ですので、
理屈は通っていると思いますが、
この解釈が本当に正しいかどうかはわかりません。
また、鳴と?を動詞・名詞のどちらに解釈しているのかわからないので
訓読法も判然としません。 >>563は文字化けしてましたので再投稿
前半部分の「其鳴自䚯」はわからなかったので、
現代中国語訳をみたら、
「発出的叫声便是它自身名称的読音」
「鳴き声がそれ自身の名前の音になっている」
ということでした。
ワンワンと鳴くからワンワンという名前になったみたいなことです。
䚯は叫と通用し、叫は現代中国語で、
我 叫 名前
のように名のるときの動詞ですので、
理屈は通っていると思いますが、
この解釈が本当に正しいかどうかはわかりません。
また、鳴と䚯を動詞・名詞のどちらに解釈しているのかわからないので
訓読法も判然としません。
https://baike.baidu.com/item/%E7%8A%B0%E7%8B%B3/18060820 >>563
回答ありがとうございます
質問ですが、敗をわざわいとする理由はなんでしょう?
敗をわざわいの意味で使うことは漢文にはよくあるのでしょうか? >>565
大漢和辞典に「わざわい」とあり、
礼記の仲尼閑居の例文を引いています。
「四方有敗 (注)敗、謂禍サイ也。」
サイの字は裁の衣を火に変えたものです。
敗を「わざわい」とする用法は、
腐敗の敗の字と近縁の用法でしょう。
腐っても負けてるわけではないので。
?文解字では「敗は毀である」とありますので、
そこから「まける」という意味も「くさる」という意味も
「わざわい」という意味も出てくるのだと思います。 >>565
史書などで天文や予言を引いた文章でよく登場します
ここでは螽ですが、干魃、雨、霜、雹などが農作物に
害を成すことを表現することが多いようです 礼記を訳しているサイトがあったので見てみると、そこでは四方有敗を「世の片隅にでも手落ちがあれば〜」と訳していましたが、これは正確ではない駄目な訳でしょうか? >>569
結構意訳しているけど、ちゃんと知識のある人が、
予備知識のない人にもわかりやすいように意訳した
よい訳だとおもいます。
四方というのは世界中ということです。
四方有敗は、世界中のどこかで禍があれば、
ということですから、これを世界の片隅にでも、
と訳すのは逐語訳ではないけれど間違っていません。
古代中国の天子は民の父母として
世界を治めていることになっていますので、
世界の片隅の出来事にも責任を負っています。
このことを強調した訳になっています。
また、儒教の天人相関説によれば、
禍がおこるのは君主の徳が至らないせいですから、
禍があったということは君主に
手落ちがあったということになります。
たとえ世界の片隅であっても禍があれば、
それは君主の手落ちということになります。
ということで、
「世界中のどこかで禍があれば〜」
という逐語訳は、天人相関説を踏まえて意訳すれば、
「世の片隅にでも手落ちがあれば〜」
になります。
意訳なだけに予備知識がなくて原文と比べると、
なんで敗が手落ちなのかよくわからないと思います。 >>569
「世界中のどこかで禍があれば」という逐語訳は間違っていませんが、
仲尼閑居で、孔子が民の父母である君主に要求している責任感が
ぜんぜん伝わりませんよね。
ですから、そういうところまで伝えようとすれば
「世の片隅にでも手落ちがあれば〜」
という意訳の方がいいということになります。
逐語訳で良しとするのか、どこまで意訳してよいのか、
翻訳するときの難しさですね。 母がたの家の写真ですが何とかいてあるか分かりませんか? >573
○○おじいさん
だけ分かった。おじいさんの名前だとおもう そうですよねえ。二文字目が佑かなあぐらいにしかわからない。
因みに私の祖父にそんな名前の人はいない
祖父様の友達だと思う >>575
人に聞いてみたところ、
「直治おじいさん」ではないかということでした。
そういうお祖父さんは、おられませんか。 大荒之東極至鬼府山臂沃椒山腳巨洋海中升載海日蓋扶桑山有玉雞王雞鳴則金雞鳴金雞鳴則石雞鳴石雞鳴則天下之雞鳴悉鳴則潮水應之矣
この文を訳したいのですが「大荒の東極は鬼府山」で詰まってしまいます(鬼府山に至る? 鬼府山の臂と沃椒山の腳に至る?)
鬼府山の先はどう訳すのが自然でしょうか >>577
中国語のサイトを見たら、以下のように句読を切っていました。
https://zh.wikisource.org/zh/%E7%A5%9E%E7%95%B0%E7%B6%93
大荒之東極,至鬼府山、臂沃椒山,腳巨洋海中,升載海日。盖扶桑山有玉鷄,玉鷄鳴則金鷄鳴,金鷄鳴則石鷄鳴,石鷄鳴則天下之鷄悉鳴,潮水應之矣。
「臂」は「一個較大地區的狹長地帶。如:銀河的旋臂 」という説明をしているサイトがありました。
「細長い形状の広い地域」というような意味ですので、
「腳」も似たようなことかと思います。
「升載」は他に用例が見つからず、具体的にどのような意味かは解りませんでしたが、
文脈から推測すれば、海の上の太陽に向かってそびえているというような感じでしょうか。
大荒の東の極みは,鬼府山に至り、沃椒山に腕を伸ばし,
巨洋海中に腳を浸し,海上の太陽に向かってそびえている。
扶桑山に玉鷄がいる。玉鷄が鳴けば則ち金鷄が鳴き,
金鷄が鳴けば則ち石鷄が鳴き,石鷄が鳴けば則ち天下の鷄が悉く鳴き,
潮水が之に應ずる。 >>578
潮水が応ずるとは何を指しているのでしょうか
潮の満ち引きでしょうか 延慶本平家物語での敦盛の最期の場面、敦盛の容姿を描いた部分でどうしても読解できない
箇所がありましたので、どなたか教えてください。
【原文】
熊谷こしがたなをぬいて、うちかぶとをかかむとてみたれば、十五六ばかりなるわかうどのいろしろく
みめうつくしくして、うすげしやうして、かねぐろなり。
せんけんたるりやうはつは秋のせみのはねをならべ、ゑんてんたるさうがはゑんざんの色にまがへりなむ
ど云も、かくやとおぼえてあはれなり。
【自分なりに分かる部分に漢字を当てはめるなどしてみました。】
熊谷腰刀を抜いて、内兜を掻かむとて見たれば、十五六ばかりなる若人の色白く
見目美しくして、 薄化粧して、鉄漿黒なり。
嬋娟たるりやうはつは秋の蝉の羽を並べ、 宛転たる双蛾は遠山の色にまがへりなむ
ど云も、かくやとおぼえてあはれなり。
・嬋娟たる ⇒ あでやかで美しいさま
・宛転たる ⇒ @言葉・声などがよどみなく、なめらかに発せられるさま
A緩やかな曲線を描くさま。特に、眉がゆるく弧を描いているさま
・双蛾 ⇒ 美人の眉
・遠山の色 ⇒ 遠山の眉:遠山の色のようにうっすらと青い眉。美人の眉をたとえていう。
【不明箇所】
“嬋娟たるりやうはつは”の部分の“りやうはつ”の意味が分かりません。
りやうはつ⇒りゅうはつ⇒柳髪
とも考えましたが、柳髪の意味が「女性の髪の美しさを柳の枝にたとえた語」とのことなので、
男性の敦盛に使用するのは違うのではと思います。
一方で、“双蛾”も本来女性に対して使う語だということを考えれば、“りやうはつ”はやはり“柳髪”で、
文章の意味は
「あでやかで美しい女性の髪は、まるで秋の蝉の羽を並べたかのようだといい、
美人の眉はまるで遠山のように薄っすらと青みがかっているというが、
まさにこの少年のようなことをいうのか、と思い、かわいそうになった」
という解釈となるのでしょうか。 嬋娟両髪秋蝉翼は白楽天が出典だと記憶しています
意味は知りません 原典では嬋娟両鬢秋蝉翼宛轉雙蛾遠山色で髪ではなく鬢
恐らく平家物語書いた人が鬢を髪と見間違えて両髪という謎の言葉を作ってしまっただけだからいくら考えても意味はわからないと思う こんばんはですよ
>>581さん
>>582さんがおっしゃる通り、白楽天の『井底引銀?』という詩の中に
「嬋娟両鬢秋蝉翼(嬋娟たる両鬢は秋の蝉の翼(はね)、宛転双蛾遠山色(宛転たる双蛾は遠き山の色)」
という言葉が出て来ます
この前半部の意味は「透き通った秋のセミの羽の如く艶やかな両の鬢」
後半の意味は『なだらかな弧を描く双つの眉は遠き山を写したかのように美しい」と言うことです
なので、>>581さんのお尋ねの「嬋娟たるりやうはつ」とは、「嬋娟たる両鬢」と言う言葉を言い換えて
「嬋娟たる両髪」としているのではないかと思うのですが >>582、>>583、>>584
ありがとうございました!
すっきりしました。 漢文だと色の説明で青と書かれている場合、青色ではなく黒色を意味していることもあるようですが、どうやって青か黒かを判断すればいいのでしょうか 平家物語の、扇ノ的 のところで最後に射殺される、
歳五十ばかりなる男の黒革をどしの鎧着けて白柄の薙刀持ったるがあふぎたてたりけるところに立ちて舞しめたり
のこの五十歳位の鎧武者の地位とか役職とかは、当時の事情を知ってる人なら
大体判るものなの?
それとも、地位とか立場とかいうものはあんまり意味は無くて、
白柄と黒革、薙刀と矢、若武者(那須与一)と老兵の対句的な対比という修辞のために出てるだけ? 「年ごろもあればこそあれ、(長年こうしてきたのに、)」【徒然草】
「あれば」は「未然形ば」で順接、
「こそあれ、」は「こそ〜已然形」で逆接ですが、
どうして上のような訳になるのか教えてください。 受け身のとこで質問というか漢文全般について質問です
この場合の受け身形だと ーる らルと書き下す時に描くと思うんですが例文を見ると れ と訳してあって る の活用させたものだと思うのですが活用させる時って漢文のどこをみて考えればいいのでしょうか?
初歩的な質問で申し訳ない
https://i.imgur.com/K22V2Jq.jpg >>591
、があるから連用中止法ということで連用形の「れ」、でしょうか? ああよかった、もし間違ったことを答えていたらどうしようって思っておりました 無料で独自ドメインを多数取得&運用する方法
https://ryoma.space ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています