>>146
本居宣長・玉あられ
https://ja.scribd.com/document/387057247/

文の部

某なる者

すべて人の名をいひ出るには、或は「某(その)國に某(なに)といふ人あり云々」、或は「むかし某といひし者の云々」などあるべきを、
近きころの人の文には、「某なる人有り云々」、「某なる者の云々」などかく。
此「なる」といふ詞、いみしき誤也。
是も漢文の近年の訓点に「有り(二)某なる者(一)」と附けたるを見ならひて、書はじめたるなめり。
漢文もふるき訓点には「といふ」を讀付(よみつけ)て、「有り(二)某といふ者(一)」とよめる。
これぞ正しきよみざまなるを、近年の人、なまさかしらに、しひて言ずくなによまむとて、
「なるもの」とは附けたるなれど、然いひては聞えぬこと也。
そも漢文はともかくもあれ、御國の文にさへ、さるひがことをまじふべきことかは。
「なる」は、もとに「にある」のつゞまりたる詞なる故に、古ヘの文には「ある」は「中將なる人」、「式部ノ丞なる者」、
あるは「京なる人」、「つくしなる者」など、官又地の名などにこそ「なる」とはいひつれ。
そは「中將の官にてある人」、又「京に居る人」といふ意なればぞかし。
されば人の名に「在原ノ業平なる人」、「紀ノ貫之なる者」などいへる例はさらになし。
さいひては「業平にある人」、「貫之にある者」といふ意なるを、さてはなるといふこと、何のよしぞや。
いと??をかし。
さしもさかしだつ近年の人、これはかりの事にだに心のつかで、いとみだりなるこそ、かへす??かたはらいたけれ。