世宗15年(1433)4月8日、
禹希烈なる者が水車(倭水車か?)を数年作っていたが、効果が無いので止めたという。
王は、支那と日本で使われているのに、
どうして朝鮮では出来ないことがあろうかと言う。
臣下が答えて曰く、朝鮮国の土性は荒く、
「泉水汚下(意味不明。ご教示請う)」という。
一日に汲み上げる水の量は一畝(広さの単位)に満たず、
汲み上げた水は(畑から?水路から?)にじみ出て逃げてしまう(?)という。

初, 朴瑞生奉使日本回還, 極言水車之利, 上信之, 都承旨安崇善亦獻議以爲可行,
上顧左承旨金宗瑞曰: “爾意何如?”
對曰: “前此禹希烈多作水車, 行之數年, 竟不見其利而罷之, 臣意恐未可也。”
上曰: “中國及倭邦皆利其用, 我國介在其間,
安有不可用之理? 但行之者不用力, 或未得其要耳。
對曰: “本國土(姓)〔性〕麤疎, 泉水汚下, 雖百倍其功,
一日所灌, 不過一畝, 而功輟則滲漏, 臣親見其狀。”
上曰: “大抵人情, 憚於新作。”
卽分遣敬差官于各道, 多置水車, 久無其效, 上疑之。
至是, 令宦寺田吉洪, 置水車於行宮近處, 役百人激之,
一日所灌, 止一畝, 而亦盡滲漏。 又令崇善往觀之,
崇善啓曰: “宗瑞終始皆言不可用, 請與俱行, 詰其利害。”
命許之。 俱往, 役八十餘人終日激之, 所灌不及一畝, 而皆滲漏。 崇善等回啓其狀, 命扈從宰相議之,
皆曰: “不可用。”
卽命還各道敬差官, 其水車藉人力者皆罷之, 唯自激水車不罷。

文宗元年(1451)11月18日、土地の性質が失敗の原因だという。
上親製諭書, 下黃海、平安道監司曰:
予聞, 中國盛用灌漑, 多以水車爲功。又聞, 倭邦亦利灌漑, 以故雖小有水旱, 鮮有失農, 民食恒足。我國自來, 亦多有川防貯水, 而遺利之處多, 故若遇水旱, 民散流亡。先王念此, 立水車之法。
然本國土性浮踈, 不能載水, 故水車之法, 終不見利。