金正浩は晩年の大東輿地図では、悩んだ後、于山島を消しています。
しかし、昨年の夏(2017年8月)に富山大学の藤本幸夫名誉教授らが見つけてニュースになった
史料があります。それは、于山島が描かれた「大東輿地図」として三点目の発見でした。
作者の金正浩が生前に作製した「大東輿地図」には、于山島は削除されて描かれていないこ
とが知られています。金正浩は、1864年から遅くとも1867年頃には死亡しています。

しかし、彼の死後に書写された作成された三点の大東輿地図には、于山島が描かれています。
さらに、この大東輿地図には、年代を推定できる手掛かりとして、朝鮮領土の北端の鹿屯島
の部分に「ロシア人が住んでいる」という記述があります。一方、1883年の西北経略使だった
魚允中の調査報告書によると「鹿屯島に住んでいる人々は、すべて朝鮮人であり、他の国の
人々は、一人もいない」とあるのです。このことから、この于山島が描かれた大東輿地図は、
金正浩の没後、青邱図をもとにして何者かが、1883年以降の数年後に鹿屯島にロシア人が
多数居住するようになってから作成したものでしょう。おそらく1890年前後頃ということになり
ます。
なお、この大東輿地図には、地図の見方の説明が冒頭あり、地図上の距離を示す方眼が描
かれています。下記の図は、小嶋日向守さんによる地図と方眼スケールを合成した画像です。
鬱陵島と于山の距離は、12〜13里ぐらいありそうなので、約5.5qほどでしょう。この地図の
于山もまた竹嶼を示していることになります。
https://i.imgur.com/zKsBFNk.jpg

参考にした画像は下記ブログのコメントからのものです。
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53024845.html
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53024588.html
https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57804298.html