1895年10月8日 閔妃殺害事件(乙未事変)
(中略)
1896年2月10日 ロシア 107名の水兵 20名の食料担当兵 大砲一門を漢城に搬入。ロシア兵150名となる。
宮女ゲン、金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に
播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける
2月11日 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ
高宗勅令で「閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵 禹範善 李斗璜 李軫鎬 李範来 権濚鎮の首を持って
ロシア公館に持参せよ」
閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城で発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された。
(中略)
1897年2月20日 高宗、慶運宮に還宮
10月12日 大韓帝国へ国号を改める
(以上、ウィキペディア「露館播遷」より)

日清戦争直後、朝鮮全土を軍事制圧していた日本兵によって王妃は殺され、王まで殺されそうになっていた。
ロシア公使館に逃げて難を逃れたものの、ロシアは1年間しか安全な場所を提供しなかったため、王妃殺害の件ですら
黒幕の日本兵にまで捜査をできなかった。

竹島が日本の固有の領土であり、韓国もそれを認めていた、と言いたいのであれば、少なくともこれより前のソースが必要