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※ 続き

しかし、誰かは雑用をしなければならないために、朝鮮では、奴婢を安定的に供給するため、
彼らの子供を再び、奴婢にするという「経国大典」を通じて身分制を確立した。
このような朝鮮の奴婢規定は、朝鮮王朝の最後の法典である「大典会通」まで続いた
(引用:キム・スンウク著、「制度の力」)。

奴婢以外に、廣大、工匠、白丁、妓生、巫堂、輿の担ぎ手、賎民、下賤の輩などを
「常奴」と呼んでいたが、すべて合わせれば、その数は全人口の70%(実際の奴婢は40%)だった。
このように下層民の数字が多かったため、奴婢の価格は、朝鮮時代は、小さな馬1頭の半分レベルだった。

1801年、純祖は奴婢案をすべて燃やしてしまえと命じたが、公奴婢に限定されたものだった。
1894年の甲午改革で身分制が撤廃されたが、土地・馬がない農民は、奴婢に他ならなかった。
このように民のほとんどが常奴身分であった朝鮮時代に、生産性の上昇を期待することはできなかった。

解放後も奴婢階級は消えなかった。
1950年代、慶尚道、蔚山、熊上、慶州などでは、少なくとも5〜10人の奴婢を従えた両班家が存在した。
この地域では両班村と奴隷の集落に居住地が区別され、身分による相互間の敬語法が存在したという。
産業化が行われた1960年代から奴婢階級は、ほとんど消える。1970年代まではその存在の様相を確認できるが、
1980年代以降は、島奴隷、知的障害者などの事例を除いては完全に消滅することになる。

※ でも、実はまだ残っている・・・