続)山田太郎前議員の表現規制反対運動も今は「オタクを”消費者”と位置づけた消費者運動」と言う事になっているのもいかにもリバタリアン的だが、
描き手の権利は関係ないらしいだけでなく、”場”にいる人全て「参加者」、と言う理念を掲げるコミケの横で「消費者」ですか、と個人的には。

続)リバタリアニズムは本来、人間が自然発生的に協同して社会を運営すれば国家の管理は必要ないと言う理屈なので、古典的自由主義と同様に人が「市民としての道徳を持ち社会に貢献する意思を持つ」事が前提。
「消費者」と言う、売る側の事も他の消費者の事も考えない「お客さん」では困るわけです。

続)また本来「消費者運動」は生活の基盤を守る社会権の確保のために行われるものであり、嗜好品・不要不急品のために行うものではない。
「消費者」と言うお客さんを主体とするリバタリアニズム、あるいは新自由主義は 詰まるところ私益の追求、エゴイズムの言い換えでしかない。

続)私益の追求としてのリバタリアニズムはつまり「他者への無関心」。
これを正当化する原理として意識無意識に飛びつく。 「表現が誰かの現実に悪影響を及ぼすか」なんて事は”そもそも考えない”属性。
自分に問題がないと思えばそれで終わり。 「Hell with you」(勝手にしろ)。

続)自分は自分の自由が侵されない限り他の国民のことなど一切どうでもいいが、社会は自分の自由を満たすために回っていてくれないと困る。
ここから「国家への無限の依頼心」も生まれ、キメラで自己矛盾な「愛国的リバタリアン」が生まれる。
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