ARB 及びメンバーソロ [転載禁止]©2ch.net
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立ててみました。
とりあえず3X3X3や光浩の40周年の曲目や、
感想など、観に行かれた方、よろしく! ☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。国会の発議は
すでに可能です。平和は勝ち取るものです。お願い致します。☆☆ YELLOW BLOODは向井秀徳が日本ロックの名盤に選んでたな アルバムは聞いたことないんだけどね、イエローブラッドってタイトルがインパクトあったから、その時代だけだけど、ARBの活躍を覚えている。浅草オールナイトロックフェスだったかなぁ。 砂丘は決して悪いアルバムではない 俺も好き
ただ一年でえらい落ち着いちゃったんだねえ、と当時も今も思う
光浩が期待されてBOWWOWまで巻き込んで移籍して たったの3年でケツ割ったのは
凌の役者志向(タレント志向とでも言うべきか)に嫌気がさしたからだ、とのことだけど
テンションの鎮静化はそういう事も関係してるのかね
ロックンローラーやゴッドブレスリング、踊り子ルシアとかを聴いてると
あー光浩の3枚目を聴きたかったなあ、と思う 光浩脱退後の凌のインタビューががっかりだつたな、
「ギターは上手いんだろうけど、アレンジャーとしては足りなかった」と
ほんの少し前までいっしょにやってた仲間をそこまで言うかと。
同じインタビューか同時期のインタビューでツインギターも考えていたとも言ってた。
その後、目の前でBOOWYが爆発する中、凌の俳優活動の宣伝とデブ浜の活躍で
知名度お茶の間露出度はARB最高潮を迎える。確かにデブ浜ほどの灰汁の強さを
持たないそれらしい曲しか書けなかった光浩には無理だった。 灰汁の強さw
>凌の俳優活動の宣伝とデブ浜の活躍
これは否定しないけど、それよりも白浜時代はバブル最高潮と合致してるのよ。
まだ音楽がビッグビジネス足り得た幸せな時代だったのだな。
逆の意味で今のような時代に、もしBOOWYが再結成してアルバムを出したら
どのくらい売れるかかなり興味あるな。
今年はデビュー40周年だし、ARBも何時までもいがみ合ってないでなんかやれ! 再結成しなくていいから各時代の完全収録ライブ盤出してくれ。 エンマや宮城在籍時のライブが見てみたい
映像素材があるらしいことは分かってるので
そこらへんをなんとか。
再結成は置いといてエビや内藤はまだ形式上メンバーだよね >>265
そうそう。
編集盤じゃなくて一つのライブを完全収録で。
ARBはまだ出してないんじゃないかな? ARB is ってライブアルバムはそうじゃなかったか?
あれが活動停止前最後のライブだとかなんとか >>267
リキッドルームの完全収録みたいだね。
ありがとう。
音源ってたくさん残ってるんだろうな。 >>262 バブル背景だけではデブ浜時代の広がりはなかったと思う。
あのまま光浩でバブル迎えてもロックファン層の中での評価は維持できたかもしれないけど。
最期のgod bless the ring,rockn rollerって大枠では何にも変わんないよな特にgod blessは12inch前2作が
鮮烈だっただけに残念感もあった。松田に言われてた「いつまでも子守してないで」(本当は映画の世界に
来いという意味だけど)ってのに影響されたのかもっと大衆に受け入れられたかったんでしょ、
新たなファン層獲得できたデブ浜先生起用は正解だった。HAPPINESSなんかなんでもっと
売れなかったのかと不思議なくらいの歌謡ロックの秀作だと思う。 まあ白浜をメンバーに迎え入れたのは正解
凌は活性化したかったのだろう
ONE and ONLY DREAMsやペーパーズベッドなんかは俺は好きでね
クレジットを凌&久にしたのは凌の嫉妬もあるよ 良い意味でイチローミツヒロ時代を壊したのは白浜しか出来ないかと
メロディーセンスは白浜が一番だと思うよ
イチローもミツヒロもいい曲書いたけどね >>271は白浜ファン
メロディーは一郎、光浩、白浜どれも魅力的で比べられるものではない 内藤幸也はかっこよかったけどARBには合わなかった気がする。
エビもなんか迫力が足りなかったな。 浅田は素人が聞いてもテクニックや表現のレベルの高さがわかるが
岡部ってどうなの?詳しい人。 浅田のプレイは上手いスタジオミュージシャンがやってるように聞こえて
正直あんまり個性を感じないな
白浜のギターがえらい個性的なのでアンバランスというか
一郎サンジ時代や光浩岡部時代は良くも悪くも聞いてて引き込まれるものがあった 長年見たかったさんまの番組が上がってた!
ラストのキース今では絶対放送無理だろうな CM出てた次女しか知らんかったけど
デブ橋君の長女ってギャビガルシアだったんだな 当時は田中一郎もビジュアル的にイケてたろ。
白浜は三枚目キャラ。 一番の謎キャラ担当
エンマは加入前脱退後の活動がわかる
残るは 岡部 阪芸卒、紳助 その後は? キースがグラサンしてないようにも見えるなw
もう一郎、光浩、白浜にキースでARB再開しろよ
歌は3人が持ち回りで キースって白浜、光浩との仲はどうなんだろ?一郎経由でいけるんだろうか。 白浜はキースと岡部を下手だから、という理由で苛めたらしいが
もう彼の音楽がウケる時代でもないし
いい加減両方とも爺さんなんだから和解したらいいのにね
そもそも自分の古い友達だか知らんが 一郎や光浩とトーシロを共演させるというのも
考えようによっちゃ失礼な話だわな 一郎・白浜=子供の頃からの付き合い
[出会いの不思議さ]
白浜さんの今までの人生は、ミラクルな出会い・出来事が多いのに驚かされる。
しかもそれは生まれる前から既に始まっていた。
白浜家の第三子として母の胎内にいる頃、
ある2歳の少年は、斜め前の家のもうすぐ生まれる子を待ちかねていた。
その少年はのちの元”ARB”リーダー田中一郎さん(現“甲斐バンド”)である。
当然、幼馴染としていつも遊んでくれた優しい近所のお兄さんだった。
[音楽の始まり]
転勤族の父と共に北海道など国内を転々とする。再び福岡へ戻り、中学は福岡市南区三宅中へ入学。
(先輩には甲斐よしひろさん〜”甲斐バンド”、永隈晋一さん〜元”SHOTGUN”、そして田中一郎さん〜“甲斐バンド”らがいる。)
中2の時に新潟県長岡市へ転校。
住んでいたのはバスが1日5本しかない町。長岡では近くのレコード店へ行くも、洋楽のお目当てのレコードは皆無。
その為お小遣いを貯め、半年に一度日帰りで特急に片道5時間乗り、
東京までレコードを買いに行くのが年中行事になっていた。
高校は長岡の進学校「新潟県立長岡高校」を受験。
合格したらギターを買ってもらう約束を両親とし猛勉強。もちろん合格。
早速もらった5万円を握りしめ近くの楽器店へ走るが、GRECOすら置いていない。
なんとか見つけたYAMAHAの赤いセミアコを、大好きだったイギリスのブルースロックバンド”Ten Years After”のギタリスト、アルヴィン・リーを真似て購入。
(実際にはギブソンだが、遠目では同じと言う事で。しかしすぐに別のギターに買い替える。) [三度(みたび)福岡へ。そして照和との出会い。]
高2の時福岡へ。
福岡へ戻ってまずのカルチャーショックは、楽器店でフェンダー、ギブソンが置いてあり、
レコード店で苦労せずに好きな輸入盤が普通に買えた事。
それでもレコードが幾らでも欲しくなる為、
苦肉の策で母からもらったお昼代を食べずに全部レコード代に費した。
17歳の時九産大生中心のバンド”Razamanaz(ラザマナス)”(のちの”SHEENA&THE ROKKETS”のドラム川嶋一秀さんも在籍)でギタリストとしていきなり照和デビュー。
そこで”リンドン”でメジャーデビューする直前の田中一郎さんとも再会。
(ちょうど”TULIP”や”甲斐バンド”も東京行く直前のタイミング)
当時、照和はジャンルのルツボ。ハードロックしか知らなかったのを、
照和で出会った先輩から色んなジャンルのレクチャーを受ける。
永隈さんからはウエストコーストの見た事も聞いた事もないバンドのレコ−ドを、
中野茂樹さん(元ノーマン・ホイットフィールド 甲斐よしひろさんも在籍、元野多目ジャグバンド)からは
ラグタイムの古いレコードを教えてもらったりと、
10代の内にアメリカのロック系図がかなりわかった。
しかも「この曲のココがスゴイんだ!」と諸先輩方は音楽的英才教育まで行ってくれた。
「10代の頃はずっと曲を聞く勉強をし、恐らく人の5倍は聞いたと思う。
そして、この頃の照和は皆オリジナリティを競っていて、
17〜18歳の(今、思えば)とても早熟な素晴らしいミュージシャンがたくさんいた。
本当に良い時期に自分も照和に関わったと思う。
機会があれば、あの75年頃の照和の音源をCDにして残しておくべきだね。」 [大学時代]
西南大学文学部英語専攻入学。大学にはほとんど行かず、大学1年の時すでに留年決定。
19歳の時には音楽仲間の溜まり場だった永隈さんの部屋に居候して、永隈さんが中洲のハコの仕事でいない時も”カヤック”他レアなバンドのレコードを山ほど聴かせてもらっていた。
”THE MOZZ”(のちの”THE MODS”)でも活動するが2年で脱退。
脱退前に書いた曲で”THE MOZZ”がPOPCONつま恋本選会に進み、作曲者として本選会に参加。
その時、自身のバンド ”THE ZIGY”は惜しくも九州大会で涙を飲んだ。
(”THE MODS”のデビューのきっかけになったデモテープは白浜さんがギターを弾いていて、おまけシングルとしてその曲が使われている。)
そして大学6年目にバンド活動封印。「目指せ、高級官僚!」と一念発起し、
残りの単位(144単位中残り80単位の為、最後の1年は月曜の1限目から土曜の2限まで授業を全部とった)をがむしゃらに取得し、
国家公務員の試験も合格。
[法務教官時代]
大学を無事に卒業し、初の赴任地は神奈川県の小田原少年院。
そこで犯罪少年(特に性犯罪や薬物依存)の矯正教育に携わる法務教官となる。
今までの人生でこの時が一番勉強したと思うほど哲学や心理学などハマって勉強し、やりがいも感じていた。
しかし2年経ったある日かつて受け持った少年が再び罪を犯し、
被害者の人生を取り返しのつかないものにしてしまった。
「もし自分が違う教育や指導をしていたら・・・。もし・・・。」そう思うと、もう辞めざるを得なかった。
後にも先にも自分の人生の中で一番の挫折。
これに比べたら、自分の音楽が売れないなんて何て事ないとさえ思うのだった [デビュー]
法務教官の2年間は勉強ばかりして遊ばなかった為、貯金はそこそこあった。
しばらく仕事をせずに過ごしていたら、世の中が短絡的に暴力に走るのを感じる。
当時、横浜の名門高生が頻繁に「おやじ狩り」をし、800人検挙された時期でもある。
やる事もなかったので、その事をテーマに曲を書き溜めていった。
そして浅田孟さん(当時“SHENA&THE ROKKETS”ベース)が頻繁にアパートへ遊びに来ていて、デモテープを作った事があった。
その時のデモテープが何故か業界に出回り、ビクター他数社からオファーがあり、いつの間にかソロデビュー決定。
レコーディングにタッチはしていなく、「出しても良いけど。」程度でキャンペーンも殆どしなかった。
その頃照和時代に面識のあった石橋凌さんがスタジオに遊びに来て、1曲セッションをする。
その後飲みに行き、石橋さんから「もう一度昔のお前に戻ってくれ!」と言われ、ソロデビューしてすぐに“ARB”へ加入。
驚いたのは大学生活の最後の1年間と就職してからの2年間の合計3年間は殆どギターは弾いていなく、
福岡時代も含めて全くデビューする気がなかった(”THE ZIGY”でもデビューの話が何件かあったにも拘らず)と言う事実。
その3年間は楽器は触らなかったが、曲は相変わらず聴いていて
「演奏するよりも曲を聴く方が好きで、人前に出てやるのはあんまり得意じゃない。」と白浜さんの口から意外な本音が出た。
[ARB時代]
この時代の活躍は周知の事実。
白浜さんは80年代はギターからシンセサイザーの時代に入ったと認識していたので、
ARBをパンクからキーボードを大胆に取り入れた形態に変化させ、アルバムは結成以来一番の売上げを記録した。(RYO&HISASHIとして曲だけでなく詞にも携わる。)
4年間の加入期間の内、スタジオアルバムを4枚、LIVEを2枚プロデュースし解散。 [不思議な縁]
田中一郎さんとの縁に始まり、デビューのきっかけ、石橋凌さんとの再会など、
白浜さんの人生には用意されたような偶然がたびたび顔を出す。
幾つかあるエピソードの内、1つだけここに紹介しよう。
少年院を辞めた後、英語が出来た事から
知合の紹介で来日したJAZZピアニストのベン・シドランの通訳についた事があった。
ある時ベンと話していたら、長身の白人男性がお店に入って来た。
その男性は当時かなり売れていたボズ・スキャッグスで、
なんと20年以上ぶりに偶然ベンとボズが再会し号泣していた場面に
白浜さんは同席した事もあったらしい。
こんな話を幾つも聞いていると、
今日の白浜さんの人生を形作るのに、一つずつの出来事が
ジグソーパズルの一片のように、どれが欠けても完成しない気がしてくる。
[ARB以後 最近]
”レッドウォーリアーズ“のギター木暮武彦さんは何故かギタリストの白浜さんにベーシストとしてオファーをかけてきて、
“サイコデリシャス”と言うバンドでベーシストとして3年間ほど一緒に活動。(レコーディングでもベースを弾く事がかなりあるらしい。)
2000年から現在に至るまではH.SHIRAHAMAプロジェクトの名で
田中一郎さん(“甲斐バンド”)、斉藤光浩さん(“BOWWOW”)、西川貴博さんら多くのミュージシャンとLIVE活動等も行っている。 最近はライフワークとして、日本国内のアマチュアで良い曲を書いている人を、日本語のまま外国のコンペにプレゼンする作業をしている。
アメリカは音楽のコンペは多く、審査にあたって年齢も聞かず、写真を要求する事もない。
無名の普通の人の曲が多くの人の魂に触れる機会を作る事を希望しているし、
白浜さん自身も優勝経験があり、白浜さんがサポートしたある方はアメリカのインディーズチャートをばく進した実績もある。
(2011年アメリカで開催された28th MASC(Mid-Atlantic Song Contest)に於いて
白浜さんの楽曲3曲のうち「Himawari (pray for Fukushima)」がInstrumental Categoryにて日本人初GOLD(最優秀賞)受賞。
他の2曲も「Sakura」がInstrumental CategoryにてHonorable Mention 受賞。
「Unknown soldier」はRock / Alternative CategoryにてHonorable Mention 受賞。※’09-’10もそれぞれHonorable Mention 受賞曲あり。)
またTV アニメ"輪るピンクドラム"ではトリプルHがエンディングテーマ等で“ARB”時代の白浜さんの作品をカバー。2012年アニメのサントラ売上1位に!
[若いミュージシャンへ一言]
アマチュア時代、LIVEへ来るお客さんは知らない人。顔見知りでも名前はわからないとか・・・
最近複数のバンドでジョイントLIVEをして、チケットを友達に売ったりすると聞く事がある。
友達に見せたいんだったら、LIVEハウスではなくてスタジオで見せたら良いじゃない。自分達は友達にチケットを売るとかはなかった。
それは違う。志が低過ぎる。自分の魅力で自分にファンをつけないと。友達とファンは違う。チケットを売る相手が違う。
若い子には『一度バイトも辞めて音楽だけで一カ月過ごしてみてごらん。どれだけ大変か。
それで喰う為にどれだけの事をやらなくてはいけないか、一回一か月で良いからやってみたら?』と必ず言っている。
その飢えに耐えられるかどうか、耐えてまでもやりたいと思えばやるべきだ。」 [これから]
現在、メジャーとはプロデュースや楽曲提供などで関わっている。そういった活動とは別に民族音楽と関わる機会は多い。
ARBの後半は、オーストラリアのアボリジニの文化にハマった時期があった。
「ディジュリドゥー」(白蟻によって空洞にされたユーカリの木を使って楽器にした物。
世界最古の管楽器の一つではないかとも言われる。)をどうしても入れたくて、その為だけにオーストラリアに行ったりした。
「ディジュリドゥー」をCD化したのは日本ではARBが初めてで、
「ディジュリドゥー」の師匠のチャーリー・マクマーン(シドニー五輪の閉会式の「ディジュリドゥー」演奏者)を日本に紹介したのも白浜さん。
音楽家として興味を持って半分ライフワークとして関わっていきたい音楽は民族音楽。
自分がやってきた音楽とバランスを取りながら上手く融合できたらと思う。
「自分のやりたい事の殆どはやれた。楽曲提供してミリオンも出したし、海外でビジネスをやったり海外でLIVEもやった。
出来ていないのは自分で歌ったものでヒットを出していないぐらい。
でもそれはあまり拘っていない。自分がくだらないと思う音楽はやりたくない。
少なくともやってそれが子供を産むような音楽〜それが民族音楽だったりするんだけれども
(近々タイフェスティバル開催等も予定)〜今まで自分の周りでは知らなかったけれども、
それに巡り合った事で幸せになってくれる人がたくさんいてくれる、
そんなきっかけを作って行きたいと思う。せっかくボーダーレスで世界(例えばオーストラリアのアボリジニ文化とも)と繋がれるのだから。もっともっとやっていきたい。」
メジャーで楽曲提供したからって、世の中は何も変わらない。
僕がいなくなったって何の不都合もない。
それだったら他人が「こんなのやっても金にならない。」と言う事をやった方が面白い。
ただ自分がアルバム出したり、LIVEしたりするのは、少なからず「僕の歌を聴きたい」と言うファンがいるから。
ゼロになったら辞める。
その人達がいる間は年に一回位はLIVEをやろうかと思う。 [終わりに]
以前たまたま見たTV番組の白浜さんの辛口トークが妙に印象に残っていて、かなり緊張してインタビュー当日を迎えた。
「クールな一匹狼」のイメージを勝手に作ってお会いしたところ、話初めてすぐにイメージは訂正する必要があると気づいた。
頭の回転の早さは印象通りだが、白浜さんの話には何せ登場人物が多かった。
交友関係の広さと人柄なのか?しかも世の中や音楽界に対する鋭いコメントは幾つかありながらも、
色んなミュージシャンの良さを客観的に認めている。
俯瞰で物を見て音楽界全体をいつも念頭に置きながら、音楽に対するチャレンジに常にアンテナを張っているように感じた。
そして仲間への友情。「自分はいつも能天気ぐらい元気だ。皆にも元気になって欲しい。」
先日の元照和の仲間とのジョイントLIVE、そして福岡時代活動していたバンド“THE ZIGY”の3ピース編成のLIVE。
白浜さんが仲間の背中を押して実現。現在、お母様の介護で年に数回帰福される予定とか。
白浜さんの元気を福岡のミュージックシーンに分け与えてくださる機会が、今後も期待できそうな気がする。
[参考:楽曲提供、プロデュース、レコーディング等で関わった主なミュージシャン〜敬称略]
福山雅治、ユニコーン、中田ヤスタカ(Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのサウンドプロデューサー)、山本太郎、
EBI(ユニコーン、ベーシスト)、森重樹一(ZIGGYボーカル)、叫ぶ詩人の会他 僕の音楽の師匠に白浜久先生がいます。
中学3年生のときに家庭教師をしてもらって以来、30年くらいお世話になっています。
https://ameblo.jp/endomakoto/entry-10751038214.html
ミッシェル・ガン・エレファントになれなかった男
1995年4月9日、下北沢シェルターに行った。
そこでミッシェルガンエレファントも同時に見た。
ベースが毛皮のようなコートを着て、ギターがドクターフィールグッドのジッピーメイヨーみたいだった。
ときどきMCのときにドラムがコミックバンドみたいにトコトコトコダン♪ってやるのが気になったが
スピード感のあるドラムでルースターズの池畑潤二さんを彷彿した。そして何よりもボーカルの迫力ある声が気に入った。
小滝橋通りにあった新宿ロフトの階段を下りた右側の壁に、
ミッシェルガンエレファントのギター募集の紙が貼ってあった。
「WILKO JOHNSONのようなギター募集。スーツ着用のこと。」
「なんだ、俺のことじゃないか」
何ヶ月か後、俺の歌舞伎町の部屋に千葉君から電話があった。「悪い。ギターは阿部君に決まったから」
https://blogs.yahoo.co.jp/endomakotonoatamanonaka/4607058.html >>283
美男美女の娘なのに
どうして次女はシャクレなんだろう 長男はなぞ 欧米かぶれの父親だから留学経験はありそう AFTER’45 日本語バージョン
はどのアルバムに収録されてますか? AFTER’45と魂こがしては別バージョンありすぎ 砂丘と同時期のシングルの2つがオリジナル
with福山バージョンもお薦め 石橋名義の表現者のバージョンはどこか違う気がする
というより石橋脱退してる 珍しい画像みつけたこれホントに初期メン?
http://harddogs.web.fc2.com/fuuin2.html
キースは本物ぽいけど長身過ぎない?、
右から宮城、キース、凌、一郎、エンマ??
一郎(背低いw)、エンマはかなり違う気がするんだけどw
しかし右上にARの文字 すごくおもしろいPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
一応書いておきます
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XLF それでいいよな
あっちゃんでもカズヤでも
そんとき来てもらえる人に日替わりで歌ってもらったらいいんだよ
喜んでライブ行くわ >>322
白浜は浅田と再会してるし二人飛び入りで。
宮城は誰かと繋がってないんだろうか、
あと生きてるのは岡部だけか。 >>325
エンマ太ったなぁ。
すっかりオジサンになっちゃった。 >>322
白豚には一応声掛けたんだろうか?
それともハナからハブってたんだろうか?
まぁ声掛けてまさか来られたりしたらみんな困るか >>330 当時使えねーからリストラしようとしてたキースとはまだNGなんじゃね? >>331
ロフトの周年イベントも
凌+お友達と
元ARBメン、とで
クッキリ出る日分かれたしな
もう無理かもな シナロケのドラマが作られるらしいが凌の娘がシーナ役とは…
全然違うだろー シナロケって、なんかダメ。
シーナのだみ声も嫌だし、鮎川はかっこいいけどギターがダメ。 わかるわ
ギター下げた鮎川の立ち姿は確かにカッコいいよな
そのきっかけで曲聞いたらズッコケた しかし、白浜ってキースをリストラしてどんなバンドを目指してたんだろう?
浅田を入れたいがために、岡部もクビにしたんだよね? 活動してた頃はね
凌にARBを期待するファンはもう居ないと思うよ 実際はそうなんだろうけどフロントマンが
中心に見えちゃうな。 当時ライブ見てた人なら分かると思うけど、印象は一郎のバンドだったよ。
ギターはバッキングからかソロまで弾きまくりながらハモるのはもちろん
合間でシンセドラムを「キュンキュンキューン」ってたたいたり
ペダルベースとアコギで「Just a 16」とか、とにかくひとりでサウンド創ってた。
白浜はプロデューサータイプで自身はプレイヤータイプじゃないから
ベースやドラムを上手い人にしてバンド強化しようとするのは当然の発想。 >>342
ヒサシは見た目も裏方タイプというか
何かいちいちダサかったからな プレイヤーや音楽誌では一郎が単独で載ってたし、一郎自身グレコの広告塔だった時期もあった。
石橋は目立ってたけど、バンドを象徴するようなイメージはなかったね。
脱退してから徐々に石橋色が強くなっていった感じ。
例えば、甲斐バンドは甲斐がフロントマンで、メディアへの露出は甲斐だけの場合が多かったけど、当時
のARBはグループ全体が多くて、たまに一郎だけのパターンや石橋単独パターンがあっただけ。 当時、リンドンから流れてきたファンのお姉さんたちは、一郎目当てだったよね。
まだアレキサンダーラグタイムバンドの頃ね。
宮城や一郎がリードボーカル取ってて、石橋が加入する前ね。 エンマとキースがご対面か。
こうなったら宮城とも再会して凌以外の全員が仲良くしたら良い。 >>331
一郎、光浩との関係は良好だと思われるのに今回出演しないのはそうとしか思えないな
>>348
一度、喉を潰してからは聞くの辛いな
ちょっとはマシになってきたけど 元メンバーの所得ってどのくらいだろう、
自営だろうから経費引いて手取りとか全然想像つかん。 一郎のボーカルはクセがありすぎだよ。なんか粘っこいというか、あんな歌い方じゃなかったのにね。
リンドン、ARB、甲斐バンド時代からソロ2作目くらいまではよかったんだけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています