森田童子について語りませんかpart9
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名古屋駅前の中規模のホールで聞いた事があります。楽器編成は
森田童子のギターに、その左右のヴァイオリンの女性とギターの男性がついて
たと思います。覚えているところでは「春爛漫」のときに舞台効果で天井から
花弁が降ってくる、というのがありました。あと、「さよなら僕のともだち」
を曲紹介するとき、曲名の合わせて手話なのか、両手を頭上で交差させるしぐ
さをしていました。
開場前に並んでいる列には意外にも普通のサラリーマンやOLの人が見えまし
たね。スーツ着ているような人が何人も来ていたので覚えています。込んでて
立ち見で見てたんですが、僕の斜め前に立っていたOL風の人は泣いてました
ね。ちなみに僕が当時持っていた森田童子の音源は懐かしのミュージック・テ
ープでポリドールから出てた『森田童子全曲集』とかいうものでした ガリ版刷りのアジビラが
風に舞う
赤ヘルメットのお前が
ぼくを見つけて 手を振った 「弱虫で優しい静かな君をぼくはとっても好きだった」っていう歌詞の唄
いいね。。 長い髪をかきあげて
ひげをはやした
やさしい君は
ひとりぼっちで ひとごみを
歩いていたネ
さよなら ぼくの ともだち 時代だよなぁ 今は男でも女でも みんな数名でツルんでる奴ばかりだけど
当時は俺も映画見るにしてもなにするにしても独りで行動してたなぁ あのスレは蛇顔の病人が立てたスレだから無視するに限るよ >>1
☆純粋に森田童子について語る森田童子ファンのための語らいの場所です
↑めっちゃキモい
「純粋に」って何だ?
純粋ならこんなスレ立てんなよ
自分で自分を純粋と思ってるのが一番不純なんだって気付かないバカ 森田童子の本名は前田美乃生・旧姓は中西美乃生
死亡日は推定 平成30年4月16日
一週間後の24日に孤独死による変死体で発見される
死亡時の年齢は65歳
住所は東京都国分寺市本多2丁目〜〜
番地は「大島てる」の事故物件サイトで確認のこと
この建物は昭和57年3月に新築
自宅購入にあたり前田美乃生さんは夫と連名で住宅ローンを組んだ
夫の前田亜土こと本名・前田正春は平成21年10月31日に死亡している
正春の死後、2015年に自宅には公明党の掲示板とホームセキュリティの監視カメラ
が導入された
これは森田童子こと前田美乃生が夫・正春の死後、精神的に不安定になったからではな
いかという説が出されている
この家は有限会社海底劇場音楽出版の登録上の本店でもある
森田童子の作品の原盤権を管理している会社だ
詳細は会社の法人登記謄本、該当住所の不動産登記謄本をダウンロードされたい 森田童子となかにし礼との関係は、なかにし礼の実兄・正一の次女が森田童子で、なかにし礼の姪にあたる
森田童子には姉と弟がいる。
前田夫妻には子供がいなかった。
それで国分寺市の不動産は姉と弟が共有名義で相続、海底劇場音楽出版の役員は弟が引き継いだ
詳しくはなかにし礼の小説「兄弟」自伝「翔べ!わが思いよ」を読み、謄本を参照すること 「有限会社海底劇場音楽出版」という会社名をグーグル検索してください
森田童子のワーナー・パイオニア移籍以降の楽曲を管理しているところです
所在地が国分寺市ですね
大島てるに投稿された平成30年4月に女性が死んだ事故物件と同一住所ですね
グーグル・ストリートビューで電気メーターも確認しましょう
次にこの会社の登記簿謄本です
「閉鎖事項全部証明書」には役員に関する事項として
代表取締役 前田正春 平成21年10月31日死亡
と書いてあります
前田亜土の本名です
https://imgur.com/gPjgCwf.jpg
「履歴事項全部証明書」の役員に関する事項を見ます
取締役 前田美乃生 平成30年4月16日死亡
と書いてあります
これが森田童子の本名です
https://imgur.com/y9YZWIk.jpg 森田童子こと前田美乃生さん宅の建物の不動産登記謄本です
有限会社海底劇場音楽出版の所在地でもあります
番地を消して表題部と権利部(甲区)だけをアップしました
あの家は昭和57年2月に新築なんですね
わたしは未確認ですが少し前に子供が生まれたらしく、アルバム「夜想曲」を出した年でもあります
床面積は以前書いたとおり1階2階とも約9坪です
最初は正春さんと二分の一ずつで共有名義にしています
平成21年に正春さんが亡くなったときに美乃生さんが全部の持ち分を相続してます
これで前田正春さんと美乃生さんが夫婦で、相続のときには子供がいなかったことが推察されます
https://imgur.com/12lBEZn.jpg
謄本の下には「権利部(乙区)」があります
ここでは当初に借り入れした金融機関と融資金額がわかります
また抵当権抹消日付により、毎月の返済金額を概算することができます
さすがにそこまで公開するのはためらわれたので皆さまご自分で取り寄せてみてくださいこれもネットですぐにダウンロードできます
ついでに建物図面や土地の方の謄本も確認すると面白いです 森田童子こと前田美乃生さんの自宅の推移です
ごぞんじのようにグーグル・ストリートビューでは過去に撮影した画像も見ることができます
いちばん古い前田家の画像は2010年2月です
前田亜土こと正春さんが亡くなってまだ3ヶ月ちょっとです
このときはとくに特徴のない普通な感じの家ですね
これが2014年になるとセコムのホームセキュリティを導入しています
2015年には玄関に監視カメラが設置され、西側の塀に公明党のポスターが貼られています
https://imgur.com/O3uyS6r.jpg
私は創価学会の人に訊いたのですが、こういうポスターが貼られている家が学会員である可能性は半々で、聖教新聞を購入している確率はほぼ100パーセント近いそうです
なぜならこんなポスターを掲げていると、たとえ関心がなくても近所の学会のオバサン連中が押しかけてくるから新聞を取らざるを得ません
監視カメラは最新の2017年の画像だと一階南側にも取り付けられています
暴力団の事務所のような重警備ですね
国分寺市ってそんなに治安が悪いのかと思って近隣を見てみましたがホームセキュリティを契約している家は他に見つかりませんでした
これは私の想像ですが、森田童子こと前田美乃生さんは夫の正春さんが死んでから精神的に不安定な状態にあったのではないでしょうか
セコムと公明党について他に良い説明が考えつきませんがいかがでしょうか なかにし礼は森田童子の親戚で叔父になります
最初にこのことを聞いてから、なかにし礼の小説「兄弟」を読みました
なかにし礼と自分の実兄との葛藤を書いた自伝小説です
時代は終戦直後から実兄が死ぬ1994年までです
小説には実兄の家族も登場します
そのなかで兄の次女である「中西美以子」というのが森田童子だとされています
実際に読んでみると森田童子の履歴とされているものとオーバーラップしてくるのですね
たとえば、森田童子こと前田美乃生さんは幼少の頃の愛称が「ミーコ」だったそうです
小説「兄弟」のなかの「美以子」さんは1953年生まれだと書いてあります
なかにし礼のサイトの年譜によりますと、一家はこの年に青森から東京へ出てきています
森田童子は自分の出身が青森とか東京とか、どっちつかずなことを言ってました
つまり出生地が青森でゼロ歳児のとき東京に来ていたんですね
小説「兄弟」では、なかにし礼本人と夫人以外の親族は仮名になってます
兄の正一は政之という名前になってます
その子供は三人いて、小説の中では長女の智子、次女の美以子、長男の哲雄がいることになってます
新潮文庫版の324ページを参照ください
なかにし礼の小説「兄弟」の該当部分です
https://imgur.com/RUnzhfT.jpg
それからこれが有限会社海底劇場音楽出版の謄本の「役員に関する事項」です
前田美乃生さんの死去に伴い役員になったのは小説のなかの中西哲雄、三つ年下の弟さんで間違いありません
そして前田美乃生さんの旧姓が「中西」であることがこれでわかります
https://imgur.com/unpayid.jpg 弾き語りの譜面を持っている方っていますか?
「蒸留反応」が弾きたくて、さっきコピーしてみたんですが
合ってるかどうか良くわからないので、良かったら教えてください。
長いマフラー〜
Am/Em/D/Em/Em
君のかじかんだ〜
Am/G/Am/Em
Am/G/Em
冷たくて〜
B7/Em/Em
雪よ降れ〜
Am/Em onB/Em/
Am/Em onB/Em
こんな感じになりましたが、どうでしょう? サングラスをしていない写真は一般には出回っていないけど
目がはっきり見える写真は公に出ていたとは。
あの新聞記事を綺麗な画像で見たいな。 >>19
あの新聞記事って何のこと?
もしかしてサングラスをしていない写真の記事があるってこと? >>20
Twitterで検索してみると分かりますよ。
お金はかかりますが。 古い童子ファンの一部は 童子のことを「森田ドウジャー」って呼んでいた 「佐藤剛 森田童子」で検索すると色付きで無いメガネの童子が見れる
お金はかかりません >>23
全部見たけど出てこない
何か勘違いしてない? 森田童子の旧宅は壊されて3階建ての建売りになったね
まだ売れ残ってるのかな
事故物件だから値引きしないとなあ もう完成してるよ
一階がピロティで車が入るようになっている >>=誰=からも相手にされない蛇男の自問自答レスw 曲名がわからないのですが。
寒い夜の海を一人で泳いで行って、船が通りすぎて行くのを見ながら、どんどん体が凍えていって、
孤独で静かで真っ暗になる……という内容の歌。
アルバムタイトルと曲名わかる人いませんか? 玉川上水沿いに歩くと 君の小さなアパートがあった
夏には窓に竹の葉がゆれて 太宰の好きな君は 睡眠薬飲んだ
暑い陽だまりの中 君はいつまでも 汗をかいて眠った ちなみに「船が来るぞ」の歌詞も知ってるけど 知りたい人いる? 童子のあの髪はカツラだったのかな。
街で声をかけられたくないから普段はサングラスを外してたといえ、
あの髪型じゃばれるし。
無名とはいえ。 >>21
サングラスをしてない顔を初めて見れた!
サンキュー! 「佐藤剛 森田童子」で検索して出てくる中に素顔の森田童子はいない
全然無関係の人の素顔は出てくるけど 素顔じゃないけどサングラスでは無いメガネかけてるだろ カツラじゃありません
あの髪型が好きだったようで引退してからも同じ感じのスタイルでした
roofのご主人の証言です >>37
あるならURL貼ってもらえない?
ネットで公開されてるなら問題ないだろ
絶対に誰かと勘違いしてると思うけど ググッて全部見たって書いてあるじゃん
俺もググッて全部見たけどサングラスじゃなくて普通の眼鏡をかけた森田童子は見当たらなかった >>47
それそれ
ここでは他の写真が話題になってるのか? >>45
ヤフーで「佐藤剛 森田童子」で検索した?
トップの記事のタイトルは何だった? 1989年に公開された映画「グッドバイ」での挿入歌
使われた曲は
「友よ泣かないのか」
「きれいに咲いた」
「君はかわっちゃったネ」
「ラストワルツ」
「ぼくが君の思い出になってあげよう 中西美乃生さんのお墓はどこにあるの?
都内のどこかだろうけど
お参りに行きたい 森田が引退直前の頃の話、北大医学部にいた友人が
燃えないゴミ回収の朝に電熱器を拾ってきて
北成荘という下宿荘の一室で暖を取ってたら、
それが壊れていて火事になりそうなことがあった。
自分の貧乏さを笑い飛ばしてていた友の笑顔を思い出す。
秋田県の農家出身で父親を事故で亡くしていた
彼は県の奨学金とアルバイトで医学生をしていた。
浅野忠信によく似た顔をしていて、やせぎすの長身。
少し猫背気味で目を下に落としながら小さな声で話す友人だった。
俺と二人で、青酸ナトリウムをパラフィンフィルムで包んでは
チューハイの中に放り込んで、互いに呑んではスリルを楽しんでた。
哲学書、詩集、ジャズとモーツァルトのレコードに囲まれた下宿生活。
そんな友も1999年の夏に突然死んだ。
函館で精神病院の副院長として
多くの鬱病患者と向かい合い共に戦った後の
突然の死だった。今でも照れくさそうに微笑む彼が夢に出てくる 私の愛した少年
十四階建ての工事中のマンションから
十五才の少年が、飛び降りて死んだ。
ひとがきの向こうに、少年の愛した最新型の
自転車が たてかけてあった。
・・・りゃく・・・
息を切らして少年は、十四階もの長い階段を
昇りながら 何を祈ったのだろう。
そして、胸をはずませて乗った、新しいピカピカの
少年の日々を
その時 少年は見ただろう
透きとおった あまりにも青い空をーーー。
・・・りゃく・・・
11月7日月曜日 私の愛した少年が死んだ。 森田童子の素顔画像あるならここに貼ればいいじゃんねえ 昔、吉田拓郎のオールナイトニッポンでALFEEの坂崎と森田童子の話してた シンガーソングライター何人かの巡業。
地方のホテル。外に飲みに行こうと
なぎらが彼女の部屋を訪れると、
森田は夕暮れ時の暗がりで灯りもつけず、
一人ベッドに腰を下ろして顎を片手で支えて
じっと(考えゴト)している。
誘うも
「いいです、ここにいます」とのこと。
冗談半分に
「わかった、じゃあ、お前ずっとその姿勢でそうしてろ!」となぎら一行は部屋を後にする。
飲み終えたなぎらが仲間と再び部屋に行くと、
森田は灯りもつけず真っ暗な部屋の中、
本当に出かける前と寸分違わぬかっこうで
同じ場所で座っていたとのこと! そりゃなぎらのライブ盤青春ラリアートに入ってるパブロフのハコの前説だな 地方で一緒になったこと以外はなぎら健一の創作らしいよ https://www.youtube.com/watch?v=uuFuqsn-AXk
「志村けん森田童子を語る」 森田童子の顔がアップで鮮明に見える唯一の動画じゃないかな? 貴重な動画ですね。。有難う。。
ところで 2016年に発売された 「伝説の森田童子よみがえる 最新リマスターCD 全曲収録」の
入手方法知ってる方いますか? 支持する会が何かやるというのは随分前に目にしてたけど明日なのか
コロナで延期してたのかな?
テクノで森田童子って全然合わなさそう 1975年10月21日、童子のデビューシングル「さよならぼくのともだち」発売。
11月21日、デビューアルバム「good-bye グッドバイ」発売。
今日は11月20日 もうすぐ11月21日になる、、、、、、、 >>63
ということは今日でちょうどアルバムデビュー45周年ってことか、、、、 弱虫でやさしい静かな君を
ぼくはとっても好きだった
君はぼくのいいともだちだった
さよなら ぼくの ともだち 俺の父親が森田童子さんと中学の同級生だったそうです
卒業アルバム内の写真を見せてもらいましたが、三つ編みセーラー服で細く鼻スジの通った美人でした
成績も優秀でいわゆる優等生だったらしいのですが、やはりどこか陰のある大人びた雰囲気をまとっていた、と
言ってました。 前田亜土は1994年にレコーディングスタジオを作ってるが、
この人、スタジオ経営でもしてたのか?
2003年のひとり遊びの録音は自宅で行われたらしいが、
このスタジオとは関係無いのだろうか。
ttp://www.gess.co.jp/plan/std_system_hyou.html オレ、今45歳。きっと童子のライブを生で観た最年少くらいじゃないかな。
確か、小学生の頃、兄に連れられて夜想曲のツアーで名古屋の雲竜ビル
(今のフレックスビル)に観に行った。
今でも、光り輝く紙吹雪が舞い乱れる中、狂ったように演奏される
「春爛漫」は鮮明に覚えている。
途中、童子がギター演奏しながら、ハーモニカを吹く曲があったんだが、
イントロが始まった途端、童子が
「ちょ、ちょっと待って〜!」
と、バックの人達の演奏を止めた。
「・・・ホルダーにハーモニカが逆さまに入ってたよぅ。。」
と童子が少しテレたように説明した時は、微笑ましい空気が会場に流れたな。
「また、いつか必ず名古屋でもライブをしたいと思います。」
と手話を交えて語っていた童子。
それから引退までに1、2回名古屋でもライブが行われたはずだったが、
まだ中学生で、名古屋からも離れた田舎に住んでいた自分は
それ以降は観に行くことが出来なかった。
今でも胸に残る思い出。。。 >>70
このスタジオで録ったものでしょう
前田さんは他の人のプロデュースもしていた >>72
なるほど。手広くやってるひとだったんだな。
94年ってことは、きっと高校教師の印税で設備改装を... >>71
学生時代、パンクロックに触発されてバンドを始めた頃
洋楽しか聴いてなかったが、童子は凄く気に入った。
洋楽のブリジット・フォンテーヌと童子は暗いといっても、例えば文学で言うと、
太宰の様な湿っぽさは無く、中也の様に突き抜けた感覚が気に入った。
雨の降る日はカセットテープで持っていたライブ版(雨のクロールやぼくと観光バスに〜が入ったやつ)を、
友人とただボーっと聴いていたっけ。
後日「ぼくたちの失敗」が脚光を浴びたときは、違和感から照れくさい感じがした。 >>76
twitterに解体中の前田宅写真があがってたが、
あの写真や海底劇場登記謄本を見る限り
前田宅には>>70のような設備は無いだろうな。
ひとり遊びを自宅で録ったんだとしたら
>>70とは別の機材で録ってるんだと思う。 あの録音を分析してた人がいるよ
8畳ほどの部屋で民生用機器を使っている
たぶん2階の東側の部屋じゃないか
前田美乃生さんの引退後は基礎疾患もあったので手遊び程度にしか歌ってなかったようだしね 前田美乃生さんなら 玉子で日舞道場やってるよ
もう80代くらいだはず。 >>79
http://www.yohei-ohshiro.com/1271.html
本名は美乃生らしいが変な名前なんで 千加子に替えたらしい
日舞の前田さんとは姉妹だったはず。 >>80
なるほど 新垣姉妹と共通するとこありますね 七色のライトが夢の家族を呼ぶ
ああ淋しい家族合わせ
火を噴く弟 母の水芸
一輪車で 十七歳のミドリちゃんは
孤独の荒野ひた走る
がんばれ がんばれ ああ家族合わせ おれは その曲は童子の唄の中では余り好きになれなかった。
その曲は唯一 依頼されて作った曲らしい
それで歌謡曲っぱい詩になったのかも >>71
だからさ、昔俺がカキコしたものを、あたかも今初めて書き込まれたように掲載すんなよ。
ちなみにもう51歳になったわ。 素顔の写真は無い 実は森田が死んだという証拠も無い
upされた会報自体も表紙は無い 掲載されたページも切り抜いただけで信憑性は無い
葬儀もどこでやったか証拠は無い 誰が参列したかの証拠も無い
遺族、親類の証拠も無い。 【訃報】作詞家&直木賞作家、なかにし礼さん死去 82歳「石狩挽歌」昭和の歌謡界支えた巨星
「北酒場」「石狩挽歌」など数多くのヒット曲を手掛けた日本歌謡界を代表する作詞家で直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが24日、東京都内の病院で死去した。82歳。死因は明らかにされていないが、1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。日本の音楽界はまた一人、大きな星を失った。
数々のヒット曲を作詞した昭和を代表するヒットメーカーで、映画やオペラの製作でも活躍。時の政権を厳しく批判する辛口のテレビコメンテーターとしても、お茶の間に愛された人だった。
波瀾(はらん)万丈のなかにしさんの人生で、この10年は病気との闘い。2012年に食道がんを克服し、3年後に再発するも、それも克服。心臓病は92年からの持病で、16年に除細動器とペースメーカーを埋め込み、劇的に改善していただけに周囲のショックは大きい。
大学時代にシャンソンの訳詞を手掛けたのを機に作詞を始め、63年に当時の大スター、石原裕次郎さんから声を掛けられたのが歌謡界に進むきっかけとなった。
65年に発表した菅原洋一「知りたくないの」が最初のヒット。その後、ザ・ピーナッツ、ザ・タイガースらスター歌手の曲をはじめ、昭和の歌謡曲全盛時代を支えた。
手掛けた作品は4000曲。それまで流行歌も軍歌も「七五調」が主流だった中、「自分は絶対に七五調は使わない」というのが作詞の鉄則。「破調のリズムで日本人の心を動かしたい」という思いは、旧満州で祖国に捨てられた戦争体験が根底にあった。
執筆活動の原点が幼少期からの赤貧体験。破滅的な兄への複雑な思いと原体験を歌にしたのが、75年の北原ミレイ「石狩挽歌」(作曲浜圭介)。
♪ごめがなくから にしんがくると あかいつっぽのやんしゅがさわぐ――。
兄が大金をつぎ込み失敗したニシン漁の情景を描き、その重い世界観は歌謡曲ファンを圧倒。そんな兄との葛藤を描いたのが最初の直木賞候補作「兄弟」だった。 なかにし礼が死んだね
これを機会に前田美乃生さんの情報が出てくるかもしれない 父、夫、本人、叔父が亡くなって
昔の実生活を語れる人は
もう兄弟だけなのかな
まさに伝説になっちゃったかな まさにその通り。身内の当事者が誰も亡くなって、これで伝説になったよ 童子過去スレは、なかにし礼本人が書き込んでいた形跡があるな 久しぶりに聞いたら泣けてきた
中年になったらもっと強く大人になれると思っていたけど全然そんな事ないね
未だに昔のこと引きずってコンプレックス抱えて生きてる 永井均のツイートが少しずつのびてる。
今でも公然の秘密みたいなものだが、色々なことが公になるのも時間の問題。 >>97
森田拳次とか中西太とか
団塊以上の世代しか知らないような名前書き込んで
自分が森田童子の叔父であることを隠そうとしてたのは
なかにし礼本人だろうよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています