インドには生まれで人を差別する「カースト制」がある。インド政府は廃絶しようとしているが、なかなかなくならない。
なぜなのか。社会学者の橋爪大三郎氏は「インドをわかるためには、
ヒンドゥー文明の価値観と行動様式を理解する必要がある。カースト制の理由もそこにある」と説く――。

ヒンドゥー文明の人びとの、行動様式
(1)まず自己主張する。
(2)相手も自己主張している。
(3)このままだと、紛争になる。
(4)みんなばらばらな法則に従っているので、大丈夫。

インドと言えば、カースト制である。カースト制は、人びとをばらばらにし、接触を最小限にして、紛争を避ける仕組みである。
接触を避けるとは、職業を別々にして、なるべく交流しない。結婚しない。
穢(けが)れが伝染するからと接触しない、などである。
 インドには、イスラム教徒もそれなりの人数がいる。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒は住むエリアを分け、なるべく交流しないように暮らしている。

■万物が「真理」に従っていると考える
 カーストの4つのカテゴリー(ヴァルナ)をみると、上からバラモン(宗教を担当)/クシャトリア(政治・軍事を担当)/ヴァイシャ(ビジネスを担当)/スードラ(その他を担当)、
となっていて、宗教の社会的地位が高い。とてもインド的だ。

 ではなぜ、宗教の社会的地位が高いのか。ヒンドゥー教という宗教から、どうしてインドの人びとの、考え方や行動様式が導かれるのか。
 こういう順序になっていると思う。
 まず、インドの人びとの考え方の、基本の基本。
 (a)「宇宙には、真理(ダルマ)がそなわっている」
 こう、深く深く考えるのが、出発点だ。
 「真理」は、法律ではない。一神教では、神(God)がいて、法律を人間に与えるのだが、
インドではそういう順番になっていない。まず、真理がある。これは、法則性のことで、誰かが決めたのではない。
人間も、動物も、そして神々も……、万物が、宇宙のすべてが、この法則に従っている。
 神々も、法則を変化させることができない。逆に、神々は、法則に支配されているのである。
 真理は、宇宙を支配するのだから、普遍的である(インド人の考え方は、世界で通用すべきだ、ということである)。
 この考え方は、4000年ほど前に、バラモン教としてインドに伝えられた。それがだんだん土着化して、ヒンドゥー教になった。仏教も、真理の考えをもっている。
 つぎに、こう考える。真理は、この宇宙に満ち満ちている。しかし人間だけは、この真理とまるごと一体化することができる。それは、素晴らしいことで、人間としてもっとも価値あることである。

 すると、どうなる。実際に、瞑想(パフォーマンス)を実行するしかない。
 瞑想は、労働ではない。真理に接近するパフォーマンスは、訓練が必要で、時間もエネルギーもかかる。
選ばれたごく一部の、特権階級のひとしかできない。これが、バラモンだ。
 バラモンは、サンスクリットで書かれた本を、たくさん読む。神々の祭祀も、行う。けれども本当は、「真理に接近できる特権をもった人びと」のことなのだ。
 そうでない人びとは、この世界に必要な、さまざまな業務を分担する。
政治・軍事を分担するのが、クシャトリア、ビジネス全般を担当するのが、ヴァイシャ……、という具合に。
彼らは、バラモンより、地位が低い。「真理にアクセスしたければ、輪廻してバラモンに生まれるのを待ちなさい」である。
 カースト制は、差別である。社会的威信(プライド)が、不均等に配分されている。下のほうに位置づけられたら、生きる気力が失せてしまいそうだ。
 これに抗議の声をあげたのが、仏教である。
 ゴータマ青年はクシャトリヤの生まれ。宗教活動をしに修行の旅に出るのは、カースト制のルール違反だ。ゴータマ青年は、命懸けで (d)「カーストに関係なく、誰でも真理にアクセスできる」と主張したかったのである。
努力の甲斐(かい)あって、覚り(さとり)をえた。ゴータマは、覚った人(ブッダ)となった。弟子を集めて、教団(サンガ)をつくった。
どんなカーストからも参加できる。同じ服を着て、共同生活をする。托鉢(たくはつ)してもらった食べ物を、一緒に食べる。
人間として平等。差別の厳しいカースト社会の反対の、理想の空間がそこにある。 仏教は、これみよがしの、アンチ・カースト運動である。