神社の起源
あまりにスレが少ないので立てました。
沖縄の御獄、華南、雲南などとの関係、シベリアはどうか。
東南アジアのナッツ、ピーってすごく似てる気がしますが。
検索したらあったので
東方好きなら民俗とか神話とかまったり語りたいだろ【其の伍】
http://jbbs.livedoor.jp/computer/41116/storage/1260722241.html 今月は神無月、
と思ったら旧暦でだからまだだった、2週間後 神社として建てられたのではなく、別の目的だった建物が後に祀られるようになったのが最初の神社だと思う。
須我神社はスサノオとクシナダヒメのマイホームだったというし。 祭事毎に建てられてた祠が仏教寺院に対抗するように巨大化、常設化されたんでしょ。 金沙遺跡で日本の神社建築のルーツを発見=
祭祀用の高床式建物―四川省成都市モバイル版URL : http://rchina.jp/article/42245.html
2010年5月18日、四川省成都市郊外で01年に発見された約3000年前の
「金沙遺跡」で、日本の神社建築のルーツと見られる高床式の祭祀建物の跡が
見つかっていたことが分かった。中国新聞網が伝えた。
>>5のおっしゃる通りで。
伊勢が仏教建築の影響を受けてるって話も別に奇説ではないしね。 >>6
高床式ってたしかに日本の神社と同じだ、南方起源なんだ。
でも古すぎて、日本の神社建築とは直接つながらないかな
>>4 >>5 さんの言うように日本の神社建築はそこまで古くない 「先史日本の住居とその周辺」(1998、同成社)所収の「ユーラシア大陸における木壁組積構造の拡散」(太田邦夫)
によると、校倉構造は中央アジア西部から伝播したようで、いろいろ
書いてあるようなんで一読を。
>1 神社はどこから来たのでしょう?
a.神社建築の様式がどこから来たのかということなら、神社建築史の文献をあたるべき。
b.神社という宗教施設を作ろうという発想がどこから来たのかと言うことなら、
大なり小なり宗教施設を持たない宗教はないんじゃないでしょうか。 さっき、放送大学で 厳島神社やっていた。
明治維新での神仏分離と廃仏毀釈って、
紅衛兵の破壊なみに無茶苦茶だったらしいね。 >>10
元々は神社の建っている場所もしくは後背の山なり岬だったりが御神体だったり信仰の対象だったんだから
社という建築物が無くとも神の坐す場所という概念的な意味での神社はもっと古くからあったのでは? 民俗学的定説は琉球の御嶽は日本の神社の原型だということ
琉球の御嶽は社も鳥居もご神体もない(現在ある鳥居は戦前の同化政策の一環として作られたもの)
偶像崇拝ではなく森や泉などの空間に神が降臨するもしくは宿ると考えた
ちなみに御嶽によっては御嶽の中心にイビ石といわれるご神体のようなものもあるが、
これは本来は神が降臨する場所を示す指標と考えられている
また御嶽の構造(何かをする場所の位置関係)も本土の神社の構造と相似している
本土にも古い神社ではこういった形式の神社が残っているそうだ >>15
>御嶽
なんかの本に東南アジアにもあるとか書いてた。
>>15
ご神体が岩って御獄そのものですよね
三輪山とかそうじゃなかった? いや、御獄それ自体はもともとは空間を聖地と認識するもので
イビ石に対する偶像崇拝ではないと考えられている(実際はされているが)
>>16
それは初耳だ。興味深い >>18
たぶん「沖縄民俗文化論」(湧上元雄、榕樹書林、2000)だと思う。
沖縄では戦前にノロが弾圧を受けたとかいう内容もあって、その前後に
御嶽と似たようなのが東南アジアにもあるとか書いてたと思う。
無かったらすいませんです。
今迄読んだ本のノートが山のように残ってまして、残務整理がまだでして。
福井のニソの杜は、沖縄の御嶽と同じ系統なのでしょうか?
三輪山と葉山信仰は? >>21
あそこらへんって、海洋系の人もいたところなんでしょ
南方起源の地名が残っているって、何かで読んだような
そうだと関係あるのかも(素人判断)
能登だったかと思って今調べたら、能登はアイヌ語起源だった。
珠洲もアイヌ語ってあるし
ダメだ忘れた 旧約聖書の「初めに神は天と地を創造された」は誤訳で、
原典のエロヒムは複数形でしかも女神のことだから、
「初めに女神達が天と地を創造した」が正しいとする説があるようです。
これはどの程度正しいと思われているのでしょうか? 神社が建てられる以前は、山、塚、古墳が信仰対象の中心。
これは、日本からモンゴルやチベットにかけて分布しているオボー(塚)信仰。
神々はもともと天上に住んでいて、天降りてさまざまなものに宿り、
再び天上に帰っていくとされていたので、
神社は本来神様の住まいではなく、人間が祭祀を行なうための場所として建てたもの。
その構造は高床式倉庫。 >>24
東北にあるサークルストーンも、そのオボーっていうものなの?
恐山で石を積むの、思い出した。
あれはたしかにチベットに似ている。 高床式倉庫は、元々、米の貯蔵庫。
豊作に感謝して、高く積まれた米を拝むことが、稲作民たる日本人の宗教の原型。 >>25
石を積むパターンもあれば、
現代に残る地鎮祭のように、砂山を築くパターンもある。 イタコの口寄せと、神社で巫女が神がかりして託宣をくだす神事は、
実質的に同じ心理技法(自己催眠の暗示)だから、
オボー信仰には、神(生前の業績を称えられて祭られている人物)の霊を、
天上からヨリシロに降ろす要素が含まれている。
誤解を招くのを嫌って、非公開神事となっているが、
祖先が眠るとされる古墳の前に立って、
巫女が神楽を舞い、
神話の伝承に基づいてイメージした古墳の埋葬者に神がかりして託宣する神事を
継承しているところもある。 神がかりの神事の舞は、一般的な巫女舞と異なり、舞い錐の舞と呼ばれている。
回っては回り返す舞い錐の回転動作を、巫女舞へと移し変えたものとされる。
舞い錐は、火起こしの道具で、その神秘の?回転パワーは、火の神を召喚できるが、
同じ回転パワーの舞で、巫女のなかに日の神を召喚できるという発想が生まれたらしい。
日の神をまつる神社の多くが、回転パワーを表現する三つ巴の神紋を用いているのは、
この巫女舞の動きを図案化したものだから。
3という数は、女性神官が政治に深く関わっていた、
日本神道のルーツの一つとされる高句麗国の道教(神仙思想)でも、太陽を表す数とされていた。
太陽に棲むとされる鳥は3本足で、神武天皇の武力の象徴ヤタガラスとして日本に伝わっている。
古墳時代の日本では、朝昼夕刻の太陽を、朝\ 昼○ 夕/と3つに分けて表記して区別していた。
これは、太陽の3女神(日女神)として表現されることもあり、今も宇佐神宮に祭られている。
というわけで、三つ巴の紋は、太陽神を天上から神降ろしする神事のシンボル。
後世になって舞い錐による火起こしが、火打石などに置き換えられていき、
回転パワーへの信仰が見失われたことで、三つ巴は流水紋とされ、
屋根瓦に描く防火のシンボルとして一般に広く普及するようになってしまった。
しかし、舞い錐の舞から三つ巴の神文まで、綺麗に体系化された世界観が現存している。
銅鐸に左右交互に連続する渦巻き文様が描かれているが、
これも火神か日神を召喚する神がかりの神事と無関係ではないとする見方もある。
非公開神事だが、ある程度のことは、姫神(日女神)の神事を
現代まで伝承している人物のブログからも読み取れる。 >>26
穀物を貯蔵する高床式倉庫にとって、最も問題になるのが、
ネズミなどによって、飢饉に備えて蓄えている食料が食い荒らされてしまうこと。
そこで、ネズミを追い払う蛇(青大将)に対する信仰が生まれる。
じつは、ネズミは蛇の臭いを嗅いだだけで、怖がって逃げてしまい、
蛇の臭いがする建物には寄り付きたがらない。
建物の周囲をぐるりと蛇の抜け殻で覆うだけでも嫌忌効果がある。
蛇の抜け殻を高床式倉庫の周囲に張る結界は、穀物蔵にしか効果がないものだが、
高床式倉庫を神社へと改造したとき、蛇皮の代わりに藁で編んだ縄を廻らせて、
建物の装飾としたのが、注連縄だと言い伝えられている神社もある。 魏志倭人伝に卑弥呼が鬼道を用いたとあるが、
その鬼道は、高句麗道教の流れを汲むとする研究者もいる。
高句麗国は神女(斎王)のアドバイスをもとに王が統治する風習を持っていた。
卑弥呼もまた海外の出来事を良く知る女神官タイプの統治者であり、
高句麗国の神女政治の影響を受けていると見るのが妥当だろう。
高句麗国では神女は神宮に住んでいたことになっているので、
日本の神社は、その流れを汲んでいると見るのが妥当だろう。
もちろん、神名や宣命書きの漢字用法も、大陸の高句麗語の影響を受けている。 >>31
>鬼道は、高句麗道教の流れを汲むとする研究者
誰?
>>15
御嶽(うたき)についてネットで少し調べてみたが、
ノロ(祝女 女性司祭)が管理する男子禁制の聖域で、
空間の中心にイビ石という石塚があり、神が降臨する標識とされている点、
古代の集落跡で、祖先崇拝の要素が強い点など、
塚を依代として扱うオボー信仰の要素を色濃く持っていることが分かる。
「拝み山」などと呼ばれることもあるなら、
東アジアに広く分布しているオボー信仰の一形態と見ていいだろう。
したがって、沖縄の御嶽が神社のルーツなのではなく、
オボー信仰が神道のルーツと見たほうが良い。 オボー信仰は、神名にも深く影響を与えている。
オボーという言葉は、古事記や日本書紀のなかには、
神名や人名を帯(おび)や大(おお)などの漢字を当てて表記する形で登場する。
『天照大神』は『大日女神』とされているが、なぜ、この二つの神名が同一神を指すのか、
現代人の感覚では、容易に理由が見えてこない。
宣命書きが古代朝鮮語、
もっと正確に言えば、古朝鮮語よりもさらに日本語と近い関係にあった、
高句麗語とほぼ同じものであることからも明らかだが、
高句麗語を漢字を用いて表記するルールで考えていくと、神名の謎が解けてくる。
『大日』の『大』は、大きいの意味ではなく、『帯』と同じでオボー信仰を表している。
したがって、漢字表記以前の高句麗語は、
『オボ・ヒ』を繋いだ言いやすい言葉、『オオヒ』だったことが考えられる。
今でも韓国語では『太』は『テイ』『日』は『イル』と読むので、
『大日』は『テイ・イル』と置き換え可能で、短縮して一文字で漢字表記するなら、
『照(テル)』となる。
天津神族(大陸系)の大日女(おおひるめ・おおひめ)を二文字漢字表記するなら、
『天照』の文字を当てるのが、漢字の意味からいっても妥当となる。
したがって『大日女』(オオヒルメ)神は『天照』神(アマテルカミ)と、
同じ意味を持つ神名となる。
大日女神(おおひめかみ)は、
オボー信仰(古墳信仰)と太陽信仰が習合した道教の巫女を神格化した神ということになる。
オボヒ信仰を中心とする国家神道の神社のルーツは、天照の神名のなかにも見ることができる。 神功皇后は、
父方が天皇(大王)家、母方が天日矛(弓月の君率いる秦氏などの渡来人が奉じる神)の裔で、
日本人と渡来人の混血と設定されているところが興味深い。
上で出てきた、御嶽(うたき)を管理するノロ(祝女 女性司祭)について調べれば分かるが、
兄王を、神に仕える妹神が守護する、オボー信仰独特の祭祀文化が伝承されている。
もちろん、高句麗国の神女が男王を補佐する女性神官政治や、
日本の斎宮制度、卑弥呼による統治なども、この流れを汲むと見ていいだろう。
妹日女(姫)のことを乙姫と呼ぶが、もちろん浦島太郎の乙姫様のことであり、
乙姫様の若き日の修行の場所は神戸布引の滝で、その下流に生田神社があり、
稚日女の名で彼女が祭られていることから、
斎宮制度にとって最も重要な祭祀の原型が読み取れる。
母系継承されてきたものなので、斎宮制度は天日矛を奉じる渡来系文化と見ることが出来る。
日神・天日矛に仕える斎女(いつきめ 依憑の巫女 いつきのみこ)の祭祀を現代まで伝承する、
卑弥呼や神功皇后の末裔とされてきた一族は、今も母系継承の形をとり、
天日矛神、すなわち太陽神(男神)の霊気をその身に受けて、
ペアとなる日女(姫)神、耀(あかる)姫(かぐやく姫 かぐや姫)に神がかりして託宣する。
もちろん、かぐや姫の物語は、耀姫に神がかりするための祭祀の流れを、
子供に分かりやすくイメージとして教えるために作られたものである。
伊勢神宮外宮が、天照神は昼夜問わず天を照らす日月神のワンペアという伝承を残している。
天日矛・耀姫の陰陽一対の関係から、男王を女神官が補佐する斎宮制度に至る流れを、
政(マツリゴト)を祭(マツリゴト)として行なっていた時代から、
持統天皇の時代に行なわれた、天照大神を女神とする一神教への宗教改革の時代までの、
変遷を見て取ることが出来る。 浦島太郎、かぐや姫と来たら、桃太郎のおとぎ話の正体も明かさなければなるまい。
桃太郎のストーリーに一対一で対応する神事は、賀茂神社の葵祭りなどの形で伝承されてきた。
お爺さんが山に柴狩りに行くが、某神社の伝承によると、
彼は山に宿る神を、木に移して、川に流すために行ったことになっている。
葵祭りでは、実際にその通りの神事が今も行なわれている。
お婆さんは川に洗濯に行くが、本当は体を清めて禊を行ない、
川から神を自分の身に受けることが目的である。
古い時代の葵祭りでは、川上から流れてくる物を拾っていたようだが、今日まで伝承されていない。
ところが、ある神社の非公開神事では、霊山のイワクラの鏡岩が反射した日の光を、
日矛鏡(天日矛神の男性の力のシンボル)を沈めた池で反射して、
太陽の反射光を斎女がホトに受けることで、神の子を身に宿すという、
類似した別パターンの神事が伝承されている。
川に移された神が流れてきて、禊をした巫女がその身に受けることを、
子供に分かりやすくイメージさせるために、どんぶらこと桃が流れてきて、
拾って家に帰ったという描写に置き換えてある。
葵祭りでは、このあと阿礼男と阿礼女が・・・という18禁と思われる、
お子様にはちょっと理解不可能な内容の、非公開神事が行なわれてきたらしいが、
桃太郎では自主規制されて、桃を切ったら男の子が生まれてきた、というストーリーになっている。
といっても、他の神社で伝承されているこの系統の高度な房中術は、
淫念を持たずに、男女が静かに離れて座った状態で気を交わらせて愛し合うもので、
子供が見ても内容的には問題ないものだが、理解不可能。
実際に、神事を継承する役目の子供は、その儀式を見学するらしい。 桃から生まれた桃太郎は、卵から生まれた朱蒙という高句麗国を建国した英雄に対応する。
このパターンの卵生神話は、扶余・高句麗地域などに存在し、
天からの子供を授かる神人婚説話のストーリーも付随している。
身に覚えのない女性が天上の神の子を産む話は、
イエス・キリストの誕生よりも、朱蒙(東明聖王)のほうが先なので、
東から西へとシルクロードを介して伝わった可能性を指摘する研究者もいる。
東明聖王には、オイ、マリ、ヒョッポという三人の家来が従っていたが、
桃太郎には三匹のお供がついていく。
太陽は3の数で表されるため、三人の家来は太陽神の力を象徴している。
きび団子は、丸い形をしていて太陽の恵みで作られたものだ。
太陽の力を宿した桃太郎(東明聖王)のシンボルである。
つまり、
桃太郎伝説は、高句麗国を建国した英雄を祖とする王族の、王位継承の儀式を、
子供に分かりやすく教えるために創作されたおとぎ話なのである。
というわけで、浦島太郎、かぐや姫、桃太郎は、
天日矛系の秦氏の祭祀の内容を子供達に教育する目的を持って創作されたもので、
日本書紀と伊勢神宮成立以前の、古い神道の姿を今に伝えていることが分かる。 日本書紀(持統天皇)の時代に行なわれた宗教改革以前の古い時代の神道では、
王族の祖先である男王神とそれを守護する妹姫神のワンペアが祭祀されていた痕跡は、
伊勢神宮の内宮に建てられる神殿の敷地が、二つ存在することからもうかがえる。
八咫鏡を作る前に、パイロット版として試作された鏡が日前国懸神宮に納められた記録があるが、
この神社は伊勢神宮よりもそれだけ古い神道の姿を今に伝えているとも考えられる。
二殿併設の日前国懸神宮に祭られている神々は、
朝廷の圧力によって時代とともに変えられた可能性があるが、
社殿の形まで変えることは出来なかったようである。
問題は、斎宮制度の廃止によって、
斎王が神がかりして得た神の力を、天皇が受け取って行使する、
祭政一致の統治体制が、宮中祭祀として現存していない点にある。
ただし、天皇の即位にかかわる神事 大嘗祭の本祭の儀式では、
悠紀殿と主基殿の二殿が一対のものとして建てられ、それぞれに神座が用意される。
したがって、一対の神々を祭っていることがうかがえる。
今日の伊勢神宮に天照大神が女神として祭られる形は、
持統天皇を皇祖神と見立てる宗教改革の結果という説を唱える研究者もいる。 大作ありがとう
興味があるので参考文献を挙げてくれないか