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【尚武の】武士道&神風特攻隊【文化】
0001天之御名無主
垢版 |
2010/10/23(土) 19:12:37
日本のますらを文化
0165天之御名無主
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2011/06/29(水) 12:02:31.64
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。
それはもつとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもつとも正直な記憶に源してゐる。
それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐるところの、民族の深層意識の叫びである。このやうな怪物的日本は、
鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰へ呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を
借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。このやうな叫びに
目をつぶつた日本の近代思想は、すべて浅薄なものだといふ感じがする。それが私の口から出、人の口から出るのを
きくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには
「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することのもつとも
危険な喜びを感じずにゐられない。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
0166天之御名無主
垢版 |
2011/06/29(水) 12:02:54.64
そしてこれこそ、人々がなほ「剣道」といふ名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い
「精神主義」の風味なのだ。私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、
あくまでその反時代性を失はないことを望む。
(中略)
スポーツは行ふことにつきる。身を起し、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの
快さについて、かつてマンボ族が流行してゐたころ、
「このシャワーの味はマンボ族も知らねえだろ」
と誇らしげに言つてゐた拳闘選手の言葉を私は思ひ出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。
運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれてゐる。どんな権力を握つても、どんな放蕩を
重ねても、このシャワーの味を知らない人は、人間の生きるよろこびを本当に知つたとはいへないであらう。

三島由紀夫「実感的スポーツ論」より
0167天之御名無主
垢版 |
2011/07/12(火) 10:43:10.04
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、もしほんたうの
恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛のエネルギーはけつして内に
たわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに
滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての
時代とは比べものにならぬほど豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは
恋愛といふものの死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ経過を
何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは目にみえてゐる。若い人たちが
いちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、この点であるといつていい。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0168天之御名無主
垢版 |
2011/07/12(火) 10:43:44.28
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が女郎屋へ連れて行つて
肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さへふれることをはばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうへに成り立ちながら、一方では古いピューリタニカルな
恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の
犠牲の対象がなければならない。それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、融通のきく恋愛の
保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。恋のためには死ななければならず、死が恋の
緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の説いてゐる理想的な恋愛である。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0169天之御名無主
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2011/07/12(火) 10:44:15.69
おそるべき人生知にあふれたこの著者(山本常朝)は、人間が生だけによつて生きるものではないことを知つてゐた。
彼は、人間にとつて自由といふものが、いかに逆説的なものであるかも知つてゐた。そして人間が自由を
与へられるとたんに自由に飽き、生を与へられるとたんに生に耐へがたくなることも知つてゐた。
現代は、生き延びることにすべての前提がかかつてゐる時代である。平均寿命は史上かつてないほどに延び、
われわれの前には単調な人生のプランが描かれてゐる。青年がいはゆるマイホーム主義によつて、自分の小さな巣を
見つけることに努力してゐるうちはまだしも、いつたん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんで
はじかれた退職金の金額と、労働ができなくなつたときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。(中略)
戦後一定の理想的水準に達したイギリスでは、労働意欲が失はれ、それがさらには産業の荒廃にまで結びついてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0170天之御名無主
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2011/07/12(火) 10:44:50.99
しかし、現代社会の方向には、社会主義国家の理想か、福祉国家の理想か、二つに一つしかないのである。
自由のはてには福祉国家の倦怠があり、社会主義国家のはてには自由の抑圧があることはいふまでもない。
人間は大きな社会的なヴィジョンを一方の心で持ちながら、そして、その理想へ向かつて歩一歩を進めながら、
同時に理想が達せられさうになると、とたんに退屈してしまふ。他方では、一人一人が潜在意識の中に、深い
盲目的な衝動をかくしてゐる。それは未来にかかはる社会的理想とは本質的にかかはりのない、現在の一瞬一瞬の
生の矛盾にみちたダイナミックな発現である。青年においては、とくにこれが端的な、先鋭な形であらはれる。
また、その盲目的な衝動が劇的に対立し、相争ふ形であらはれる。青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じやうに
持つてゐる。これは自由への衝動と死への衝動といひかへてもよい。その衝動のあらはれが、いかに政治的な形を
とつても、その実それは、人間存在の基本的な矛盾の電位差によつて起こる電流のごときものと考へてよい。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0171天之御名無主
垢版 |
2011/07/12(火) 10:45:20.20
戦時中には、死への衝動は100パーセント解放されるが、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、完全に
抑圧されてゐる。それとちやうど反対の現象が起きてゐるのが戦後で、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、
100パーセント満足されながら、服従の衝動と死の衝動は、何ら満たされることがない。十年ほど前に、
わたしはある保守系の政治家と話したときに、日本の戦後政治は経済的繁栄によつて、すくなくとも青年の
生の衝動を満足させたかもしれないが、死の衝動についてはつひにふれることなく終はつた。しかし、青年の中に
抑圧された死の衝動は、何かの形で暴発する危険にいつもさらされてゐると語つたことがある。
(中略)
トインビーが言つてゐることであるが、キリスト教がローマで急に勢ひを得たについては、ある目標のために
死ぬといふ衝動が、渇望されてゐたからであつた。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで
及んだローマの版図は、永遠の太平を享楽してゐた。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0172天之御名無主
垢版 |
2011/07/15(金) 16:31:30.88
現代社会では、死はどういふ意味を持つてゐるかは、いつも忘れられてゐる。いや、忘れられてゐるのではなく、
直面することを避けられてゐる。ライナ・マリア・リルケは、人間の死が小さくなつたといふことを言つた。
人間の死は、たかだか病室の堅いベッドの上の個々の、すぐ処分されるべき小さな死にすぎなくなつてしまつた。
そしてわれわれの周辺には、日清戦争の死者をうはまはるといはれる交通戦争がたえず起こつてをり、人間の
生命のはかないことは、いまも昔も少しも変はりはない。ただ、われわれは死を考へることがいやなのである。
死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、
明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けてゐようとする。そして、死がわれわれの生活を
じよじよにむしばんでいく力に対しては、なるたけふれないでゐたいと思つてゐる。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0173天之御名無主
垢版 |
2011/07/15(金) 16:32:11.48
このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるといふ機能を
営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、
それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させたものに化してゆく過程を示してゐる。
死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである。
しかし、死だけは、「葉隠」の時代も現代も少しも変はりなく存在し、われわれを規制してゐるのである。
その観点に立つてみれば、「葉隠」の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、
毎日生を心に当てることと、いはば同じことだといふことを「葉隠」は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと
思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0174天之御名無主
垢版 |
2011/07/15(金) 16:32:57.23
西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、
じよじよに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、
まつたく肉欲と断絶したところの精神的な愛であつて、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。
(中略)
日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に
対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変はりない。このやうなエロースと
アガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕の情」といふ名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤を
なした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊して
ゐるとはいへない。それは、もつとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に
一直線につながるといふ確信である。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0175天之御名無主
垢版 |
2011/07/15(金) 16:33:27.71
一方では、死ぬか生きるかのときに、すぐ死ぬはうを選ぶべきだといふ決断をすすめながら、一方ではいつも
十五年先を考へなくてはならない。十五年過ぎてやつとご用に立つのであつて、十五年などは夢の間だといふことが書かれてゐる。
これも一見矛盾するやうであるが、常朝の頭の中には、時といふものへの蔑視があつたのであらう。時は人間を変へ、
人間を変節させ、堕落させ、あるひは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか
真実がないとすれば、時の経過といふものは、重んずるに足りないのである。重んずるに足りないからこそ、
その夢のやうな十五年間を毎日毎日これが最後と思つて生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、
一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが「葉隠」の説いてゐる生の哲学の
根本理念である。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0176天之御名無主
垢版 |
2011/07/19(火) 20:37:46.79
「葉隠」は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の原理に従つて、
大きな行動を成就するところに着目した。(中略)
もし、謙譲の美徳のみをもつて日常をしばれば、その日々の修行のうちから、その修行をのり越えるやうな
激しい行動の理念は出てこない。それが大高慢にてなければならぬといひ、わが身一身で家を背負はねばならぬと
いふことの裏づけである。彼はギリシャ人のやうにヒュブリス(傲慢)といふものの、魅惑と光輝とその
おそろしさをよく知つてゐた。


男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、一見
荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。


忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで
惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、
恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。

三島由紀夫「葉隠入門」より
0177天之御名無主
垢版 |
2011/07/19(火) 20:38:24.63
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。


長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことが
できない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。そして生きるといふことは向かうから、あるひは
運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。


戦士は敵の目から恥づかしく思はれないか、敵の目から卑しく思はれないかといふところに、自分の対面と
モラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。


いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野の
かたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より
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