岩屋、いわや、窟
修行や信仰の場としての岩屋、全国にある岩屋がつく地名に
ついて語るスレです。 28 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日:2009/01/06(火) 14:27:31
諏訪神社も良いが、諏訪神社よりも創建が古い岩屋山もいいね。
明治に神宮寺が撤去されたのは残念だが。
31 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日:2009/01/06(火) 22:31:10
>>28
岩屋山は力が強すぎて怖くね?
大きな杉の木の前にある倶利伽羅炎の像が好きなんだけどね…。
その大きな杉の木に登って太い枝に縄をかけて首を吊る映像が脳に浮かんでくるから怖い
ご神木で汚しちゃいけないし、そもそも俺には自殺願望なんて無いんだけどね。
36 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日:2009/01/07(水) 07:51:11
岩屋山神宮寺(いまの岩屋山神社)は行基菩薩が奈良時代に開いた霊場で、
弘法大師も来られたという伝説がありました。
朝廷や足利将軍家の尊崇も篤く栄えていましたが、キリスト教時代と明治の
廃仏毀釈で跡形もありません。
もともと霊場でその後荒廃した場所は、鎮めがとれて何かとまがまがしくなるものです。
そもそも全国に岩屋とつく地名で霊場でない場所はありません。
岩屋山もご多分にもれず岩屋(洞窟)があり、また仏教以前の岩座も山中に点在しています。
ちなみに郡岳の太郎大権現と岩屋大権現を合わせて神宮寺で祭られていました。 44 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日:2009/01/08(木) 07:40:32
ちなみに岩屋山は江戸時代まで女人禁制、雲仙多良岳もです。
山に入るのは特別な人だけ。
ちなみに鹿児島の「もいどん」という小さな森も、
山ではなくただの藪ですが禁足地。
高い、低いではなく特別な場所か否かだと思いますよ。
なお、岩屋山にはちゃんと行場らしきものがありますから何らかの修行が
行われていたと思いますが、資料が全部なくなっているので分かりません。
62 名前:名無しさん@京都板じゃないよ 投稿日:2009/03/07(土) 02:39:34
岩屋さんは感受性の強い人は昼間でも怖いっていうね
昔霊山だったって話は知ってたけど小さい頃よく登ってたから今でも大好きだよ
でも道路工事で山削っちゃったから昔なじみの道が潰れて悲しいよ >>5
>そもそも全国に岩屋とつく地名で霊場でない場所はありません。
こういうの面白いね。
長崎以外の地域の例も、誰が挙げてくれないかな。 鳥取県 粟島神社にある「静の岩屋」なんて霊場と呼べるのかな?
人魚の肉を食べたために死ねなくなった八百比丘尼が住んでいたという岩屋だけど。
一応そのような伝承があるので岩屋の前には鳥居があったりするけど、霊場という雰囲気では無かったですよ。 昔は霊場だったけど、今は俗化してるってことじゃなくて? 八百比丘尼が住んでいた、と伝えられるのでその可能性はありますが…
場所は粟島神社のある岡のすぐ麓なのですが、神社の直ぐ近くだけに霊場として認識されていたのであれば、
何らかの記録も残っているだろうに、とも思います。
むしろただの洞窟を、伝承にかこつけて表だけ取り繕ったような印象も受けます。
「粟島神社 静の岩屋」でググって見れば写真は幾らでも見つかるかと。 粟島神社 静の岩屋で、ぐぐってみた範囲では、霊場だったことを否定も肯定も出来ない感じだなぁ。
長崎の岩屋山も、「資料が全部なくなっているので分かりません。」って書いてあるぐらいだし、
記録が無いってことだけでは、否定しきれない気も 確かに神域の直ぐ側であるのに記録が何もない、というだけですので否定する事も出来ないのですけどね
或いは八百比丘尼の伝承も、消えていった何らかの祭祀を司る巫女が、形を変えて伝承として残されている、という見方も出来る訳ですし。
それが真実であった場合、そこは霊場と見られていた事になるのだろうし。 >>5の、「そもそも全国に岩屋とつく地名で霊場でない場所はありません。 」の根拠がもう少し聞ければなぁ >>17
蜂子皇子は父を殺されて都から山形に逃げて岩窟で修行して
羽黒山修験道開祖となった。
湯出山、月山、羽黒山を開山した。 奥州市江刺区・観光・歴史・名所
岩谷堂城(要害)概要: 岩谷堂城は平安時代末期、
藤原清衡とその父である経清の居館豊田館の一部、
又は砦跡と言われ周囲から平安時代の住居跡が発見されています。
中世になると江刺一帯を支配した江刺氏の居城となり、山城として築城しますが、
戦国末期になると、江刺氏は本家筋である葛西氏と共に
豊臣秀吉の奥州仕置きにより改易されます。
近世には伊達領の北方の守りとして交通の要所で
経済の中心であった江刺に要害屋敷を整備し北方の守りとしました。
現在二清院がある平場は「本丸跡」で、
一段低い所の展望台がある平場が「中の郭」と呼ばれていました。
「中の郭」は現在でも空掘や土塁の跡を見る事が出来ます。
岩谷高校の校庭が二の丸跡とで、
岩屋氏の重臣が居を構えとしました。
岩谷堂箪笥
wikipedia
岩谷堂箪笥(いわやどうたんす)は、
岩手県奥州市江刺区で作られる箪笥。
1982年には伝統工芸品に指定された。
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
岩谷堂家具の起源は平泉が栄えていた頃の康和年間、
奥州藤原氏初代・藤原清衡が平泉に居を移すまでの約30年間、
江刺郡豊田館を本拠地とし、
産業奨励に力を注いだ時代にさかのぼると伝えられている。
江戸時代に岩谷堂城主、岩城村将が家臣の三品茂左右衛門に箪笥を作らせた。
文政年間には、徳兵衛という鍛冶職人が彫金金具を考案した。
岩屋と言えば、岩屋天狗を思い出すけど、あれもなにか関係あるんだろうか? 岩屋天狗って例の「岩屋天狗と千年王国」のやつか?
あれは本当の歴史は隠蔽されてるし岩屋天狗と呼ばれた人物が確かに居たけれども、
ソースは出せないっていうよくあるトンデモ歴史本だぞ。
オカルトマニアにでもしたら価値があるのかも知らんが。 歴史としては完全に電波だけどね。
ただ岩屋という語句には、民俗学的には何か引っかかるものを感じるな。
作者の家に何らかの伝承は伝わっていたことだけは確かそうだし、妄想に駆られていたとは言え、
一応東大卒の人間が何年にも渡って様々な文献を読みまくってたみたいだから、その中に何か
元ネタがあったんだろうとは思う。 >>22
チッチッチッ
この板の人間が、あれを歴史本として読んじゃいかんよ。
あれは、中世日本版シンドバッドの冒険 >>24の意味理解出来てないだろ。
俺も24じゃないけど シンドバットというのは、具体的にそういう個人がいたわけではなく、当時インド洋を駆けめぐっていた
商人達の話が集まって、一人の英雄像に作り上げられていったものと考えられている。
岩屋天狗の話も、それとちょっと似てるってことだろうね。
著者が家伝の言い伝えを聞いたときに、何らかの像が頭にあり、いろいろ調べていくうちに郷土
ナショナリズム的想いから、いろんな話を全部寄せ集めてしまった。
倭寇的な英雄像とか、宗教一揆の指導者像といったように、特定のターゲットに絞って話を作れば、
少なくとも読める話になったはずだけど、いろんなところに発表したものを集めて全部読んでしまうと、
つじつまがまったく合わなくて、頭がおかしくなってくるような説になってしまってるってことだろう。 江ノ島岩屋も空海や日蓮が修行しているぐらいだから、完全に霊場だよね。 岩屋でぐぐると、確かにいろいろあるねぇ。
岩屋が霊場、修行の場、祭祀の場なのは、単に自然に出来た屋根のある空間って他に、何か理由があるんだろうか? イワナガヒメとか石=不死に繋がるし八百比丘尼なんかとも関連あるのかもな。 >>28
シンドバットは千夜一夜の中じゃほんの少ししか出てこない。
そもそも千夜一夜自体が中東どころか世界を代表する寓話の傑作集。
その編纂時代も前後千年にわたり無数の語り部が自らの才能で脚色している。
比べられる部分などどこにもないぞ。 他に有名なのだと岩屋権現とかもあるな。
確か「酒呑童子の首」って本に酒呑童子説話に出てくる、
鬼の城へ至るために岩穴を抜け鬼隠しの里へ入らなければならないという件は、
岩穴という境界によって鬼の住む世界と人の住む世界が異なるという事を、
明確に表してしているというようなことが書いてあった。
甲賀三郎伝説やら、おむすびころりんやらの様々な伝承や民話を見るに、
岩穴などがあちらとこちらを繋ぐ、境だと考えられていたのは確かだろうけども。
重要なのは、その穴というのが物理的にどこかへ繋がっている必要はないこと、
あちらとこちらが一方通行ではなく、行き来できると捉えられていたことだと思う
(あちらというのが何を指しているのかは、話によって違いがあったとしても)。 >>32
だから、千夜一夜じゃなくて、シンドバッドの冒険だけなんでしょ。
なんでここで千夜一夜まで引き合いに出すのか不明。 >>32
シンドバッドというキャラクターの話してるだけなのに、なんでそんな話になるの? 中身のない揚げ足の取り合いはどっか見えない所でやってくれない?
はっきり言って邪魔だから なんか一人でファビョってるやつがいるな
逆切れは見苦しいよ 海岸にある岩屋は、石風呂と言って、かなり古くからサウナとして使われていた。
瀬戸内海なんか多かったらしい。 よく神明様が奉ってあるよな
修験者が住み着いてたっていわれる岩屋も多いし、なにかしらの信仰対象になってた形跡は多いね それは、自然に出来た屋根がある場所だから、修行に調度いい場所として
たまたま利用されていたのだろうか。
それとも、岩の中に空間があることから、何かが宿るというような観念があったのだろうか? 防腐効果=神妙なはたらき、という感覚なんだろうか?塩や酒と同じで
季節外れだけど、
氷室=雪=三角=水無月豆腐=夏越之大祓みたいな
地元の岩屋さんがある辺りは確かに氷室が多い
岩の層が剥き出しの地域だから両方あるんだろうけど 953 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2009/02/04(水) 05:03:03 ID:Lkk1cZVW0
岩屋と聞くと、なんか霊界物語の、最後のときに石屋がなんたら、って記述を思い出す。
956 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2009/02/08(日) 14:07:49 ID:by5vZE9P0
>石屋って表現自体近代のものだから
石屋はそうなのかもしれんが、岩屋はかなり昔からあるよな?
全国の岩屋山は霊山だったり、特別なばしょばっかりだし。
961 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2009/02/14(土) 22:25:14 ID:8f3KDqiM0
アマテラスがスサノオの蛮行を避けて天の岩屋に引きこもって岩戸を閉めたことから
岩屋は神が隠遁する場所とも考えられる
そして岩は人の頭蓋の象徴でもある 岩井堂というのもよくあるんだが、単純に岩屋堂の転嫁ではなさそう。
岩窟を伴わない例も多数見受けられるから。
おそらく、神仏習合の「祝堂」を根拠とするのもたくさんあるんじゃないか。 >>58
ヤオトンは四川の大地震の時の地盤液状化で相当数が崩壊して
ヤオトンに居住してる多数の住民が死んだな。 岩屋と呼ばれているところで、古代・先史時代には住居だったって分かっているところあるんですか? 住居は微妙だけど、古墳時代に風葬墓だったところは結構あるみたい
古墳の権威の辰巳センセが最近そのへんやってるみたいよ 素朴な疑問だけど、洞窟と岩屋って何が違うんですか? そりゃ人が住んだり修行したりと人が関係した穴が岩屋で
人が関係していない自然の穴が洞窟じゃないの 洞窟だけが岩屋じゃないんじゃね?
雨よけとして利用されるような突き出した巨石の下や、2つの巨石が折り重なって屋根状になったその下なんかも
岩屋って言うし
つまり天然の岩で出来てて、人が過ごせる屋根状になってりゃ岩屋(岩谷)なんじゃね? 岩屋について書かれた研究書とか、論文とか無いものかねぇ。
ぐぐっても、定義とかその他いろいろ曖昧な点が多くて。
民俗学的には、岩屋って、結構意味がありそうだけど。 岩屋がある所の郷土史料なんかを当たるのがいいんだけど
遠いとしんどいな 富山の仙人岩屋とか、なんかいわれがいろいろありそうだけどね。
Amazonで見ると、『仙人岩屋周辺屋敷跡の調査報告書』って本まで出てるけど、
レビューも何もついて無いから、手を出していいものかどうか。
そもそも、岩屋についての情報があるのかもよくわからないな。 >>69
確かに洞窟は、人の生活と関係あるなしに関わらず、空洞の岩
岩屋は、屋根の機能を果たす岩&その下の空間
って感じだね。 >岩屋は、屋根の機能を果たす岩&その下の空間
だとすると沖縄の斎場御嶽なんかも、岩屋の一種になりそう。 でも、単なる笠石とかドルメンは、岩屋と言わないような 岩屋岩陰遺跡については、古代人の天文観測所という人もいたり。
http://www.mirai.ne.jp/~ksyoko/iwakage/ 淡路島の岩屋という場所には戎神社があって洞窟をまつってる 松帆浦の淡路島の神様の表玄関口、岩屋恵美須神社「分神」。
「岩屋恵美須神社」の後背の岩山が国生みの舞台?「三対山」。
神社裏側の洞窟は伊弉諾大神の隠れたもうた原初の「幽宮」(墓)の伝承地で岩楠神社が鎮座し「伊弉諾神宮の摂社」。
名勝、「大和島」、「絵島」は三対山の天然の鳥居。夫婦島。
石屋神社は何やら色々と三位一体の御事。
いにしえ、天地大明神と天皇より御名を奉られました。
神功皇后はここ三対山山頂の石屋神社で何やら色々と御祈祷なさりました。
ここはまた、原初の「太陽之道」(淡路島×伊勢国では三本以上が現存)。
東の対岸は住吉大社、信貴山、石上神宮(いそ→いせ)。
石清水八幡宮の冬至の日没方向。
南東遥かには玉置山。 蛭子エビスさま有縁の三社詣りはいかが?
蛭子エビスさまはイザナギ命とイザナミ命のハネムーンベイビーの第一子で淡路島生まれ。
淡路島北端の岩屋地区に御鎮座の岩屋恵比寿神社が元エビス。
この奥、岩壁下の洞窟には岩樟神社(エビスさまはこちらでお生まれに・・・伊弉諾大神の幽宮伝承があり同神宮摂社)。
この岩屋(松帆浦には岩屋恵比寿神社の分神が明石海峡に向かって建っています)の海岸から岩樟舟に乗せられて・・・。
次は、神戸の和田岬の和田神社(第一漂着地伝承)。
最後は、言わずもがなの西宮戎神社(和田岬〜鳴尾浜に・・・)。
古来、船渡御では鳴尾浜〜和田岬沖まで巡幸。
ちなみに、石屋と書いて「いわや」と呼びます。
石屋神社は「いわや」神社と呼びます。
現在、石屋神社と岩屋恵比寿神社は別々の場所に有りますが、
元は同じ岩屋恵比寿神社と同じ岩山、三対山(通称、城山の)の山上と山麓に有りました(神功皇后有縁)。 淡路島北端の淡路市岩屋地区
石屋(いわや)神社には天地大明神として国常立尊と共に、イザナキ大神、イザナミ大神がご鎮座、奉祭されています。
元は北側一`?の岩山。通称、城山の三対山にご鎮座。戦国時代に池田氏により岩屋城築城の為に現在地に遷坐されました。
三対山麓には洞窟(古代祭祀の痕跡〜イザナキ様の幽宮伝承)の岩楠神社。前には恵比須神社(元エビス伝承)が、
真東の対岸、同一緯度上には住吉大社〜信貴山〜法隆寺〜石上神宮等が数珠繋ぎ。の『太陽の道』の一つ。
近隣には、オノコロ島の比定地の一つ、神代、万葉〜の名勝『絵島』、大和島他、国生み神話の舞台装置が多数有ります。
この石屋神社には全国で唯一、拝殿の天井に方位を示す十二支円盤に『方位磁石』が取付られています。
由来、いわくは不明です。 子午線は畿内の西結界。
古代には明石の岩屋神社(成務天皇の勅命により淡路島北端の石屋神社=三対山(洞窟は伊弉諾尊の幽宮伝承地)より御神体を奉迎して創建)
の南北線が西の結界。
北の遥か神出の雄丘山(伊弉諾尊)と雌丘山(伊弉冉尊)。
特に雌丘山は子午線が通り重要かも。
淡路島のランドマークが汐鳴山。東側が石屋神社。
その南に
素戔嗚神社、
真言宗別格本山、本福寺(安藤忠雄氏の設計により本殿の上に蓮池を配置した「水御堂」となり有名に。三洋電機創業家の菩提寺。同社の物故者慰霊所)、
松帆神社(旗山八幡宮。1399年に楠木正成公有縁の八幡大菩薩(八幡大神)を遷座し創建。湊川神社、京都は方面は鬼門。三輪山の真西)、
伊勢久留麻神社(式内社。淡路三宮。六世紀末の創建。本殿脇社に伊弉諾尊が坐す。)、
仮屋の寺社群ほかが整列。 岩屋神社 (明石市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%B8%82%29
岩屋神社(いわやじんじゃ)とは兵庫県明石市材木町8-10に鎮座する神社。
海上神事である「おしゃたか祭」で知られる。
延喜式神名帳の伊和都比売神社に比定される神社のひとつ。
社伝によると、143年(成務天皇13年)6月15日に成務天皇の勅命により、
淡路島の岩屋より神を勧請して創建されたと伝えられる。
同年夏に当地の子供に淡路島の岩屋の神が懸かり、
当地に勧請するようお告げがあり、勧請したという伝承もある。
1825年(文政8年)に渡辺容信によって著された淡路地誌『淡路草』にも
淡路・石屋神社の御分霊を明石・岩屋神社に遷したことが記されている。
明石浦の名主・前浜六人衆が新しい舟を仕立てて淡路から神を遷す際、
海がたいへん荒れて舟を明石浦の浜に着けることができず、
西方の林崎前の赤石(明石の名の起源)へ舟を着け、海難防止と豊漁を祈った。
明け方には海も静まり、現在の地に無事神様をお迎えすることが出来たが、
このとき地元の住民が沖まで泳いで出迎え、「ご神体と一緒に乗船するのは畏れ多い」と
泳ぎながら舟を押して岩屋の地に着いたという。
創建以来、稲爪神社、海神社と並んで東播磨地域の古大社として人々の厚い崇拝を受けた。
特に明石城の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝する神社のひとつであった。
1737年(元文2)には藩主・松平直常の世継ぎ松平直純が「鎧始めの儀」の際に当社に参拝し、
以後、世継ぎの鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となった。 しょうも無いこと言うから、白けてしまったじゃないか さらっと>>87を流すくらいのセンスが
欲しかったな 例えば…
・日本最古の岩屋
・岩屋の種類
・岩屋に祭られた神の例
・岩屋限定の信仰または祭祀
・なぜ衰退したのか
・各地比較
このへんをロマンチックに聞きたいな >・日本最古の岩屋
日本各地に天の岩屋とか、天の岩戸と呼ばれる遺跡があるけど、その中に
最古クラスの岩屋があるんじゃないだろうか。
基本的にどれも神社の神域にあるんで、よくある江戸期にこじつけでできた
観光地、みたいなのはないと思う。 まあ初期の岩屋が、巨石信仰と深い関係があることはまず間違いないだろうね。