埼玉苗字辞典
http://homepage1.nifty.com/joichi/2-6si.html
島 シマ 斯摩、志摩、司馬は島と記す。日本書紀・神功皇后摂政四十六年(応神天皇)条に「斯摩宿祢を卓淳国に遣す」と。
百済の卓淳(とくじゅん)は慶尚北道大邱の古名。斯摩宿祢の使が百済王の肖古王(百済十三代、在位三四六〜三七五年)に献上する。
後漢帝は朝鮮楽浪郡の南に帯方郡置く。
古代氏族系譜集成・坂上氏系図に「後漢帝―石秋王延(封東呉石秋県、至帯方郡)―マ(帯方大守。弟楯は百済上柱国)―ム(帯方大守)―f(沂州司馬)―阿智使主照(応神天皇二十年投化、居大和国高市郡桧前村)。
鞍作村主等従ひ来る」と。呉、司馬は百済国の内なり。クレ条参照。坂上族は東漢直(やまとのあやのあたえ)、或は桧前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され、同族百済人蘇我氏に軍事をもって臣従した。アヤ条参照。
扶桑略記・継体天皇六年に「大唐漢人案部村主司馬達止、此の年春二月入朝す」。大唐(大加羅)の漢人(あやひと)は百済人、案部村主(くらづくりのすぐり)は鞍作の村長なり。日本書紀・敏達天皇条に「鞍部村主司馬達等、其の女、島・善信尼と云ふ」。
司馬氏は島氏に同じ。蘇我馬子(司馬宿祢、島大臣)―蝦夷―入鹿(鞍作)あり、蘇我族は島氏にて鞍作部の支配者なり。扶桑略記・推古天皇元年に「蘇我大臣馬子宿祢、飛鳥の地に於て、法隆寺を建て、島大臣並百余人、皆百済服を著す」と見ゆ。
蘇我氏の本貫地大和国高市郡曽我庄(奈良県橿原市)の曽我川は別名百済川と称す。当地方は島岡、島田氏等が多い。東国に於いて、島崎、島田、島根、島野、島村等の百済渡来人島族は武蔵国に多く存す。
島田、島野条参照。出雲国に渡来した島族は伊勢国・志摩国(三重県)へ移住す。神武天皇東征の頃に伊勢津彦あり。志摩国は島津国と称し、国造本紀に「島津国造。成務天皇朝、出雲臣の祖・佐比禰足尼の孫出雲笠夜命を国造に定め賜ふ」。
「武刺国造の祖神・伊勢都彦命」と見ゆ。出雲臣族の武蔵国造の祖先は伊勢地方より島族を率いて武蔵国へ移住す。足立郡島村(大宮市)は島津郷と称す。津は人や物の集まる所の意味で島族の集落を島津、島ノと称す。
小名島は、埼玉郡道口蛭田村、市野割村、久米原村、百間領須賀村、広田村、杓子木村、足立郡沖之上村、比企郡越畑村、幡羅郡間々田村、葛和田村、西別府村等にあり。各市町村に存す。