中臣氏ですら、巷間に伝わるかなり抽象的なその氏名の由来譚に対して、
戦前から中臣氏も、「ナカ」という地名を本拠地とし、臣の姓(かばね)を賜った氏族である、という推論をしていたのが太田亮氏だね。
長い間この説は黙殺されていたが、戦後になって、「足で研究した」網野善彦氏が、常陸中郡氏の子孫の家に伝わっていた『中郡文書(『桐村文書』とも)』を発見して、一躍脚光を浴びることになった。
神耶井耳命後裔・多(おほ)氏の一族が常陸に移り、常陸の那珂(仲、中)国造に任じられた経緯、系譜が記されているんだよね。
今でも主流学説になったとまでは言い難いが、
この中郡文書には、常陸平氏の別れである陸奥海道平氏の海道小太郎成衡が出羽清原氏に婿入りし、清原氏の家督を継ぐ予定となったわけだが、正式に家督を継ぐ前にその清原氏が源義家に滅ぼされてしまったあとの行方については不明であった。
それがこの中郡文書には、成衡のその後の下野国への移動、およびその最期の迎え方など詳しい経緯が書かれており、歴史的にも整合性が取れることから、
野口実氏や元木泰雄氏など、当代第一級の研究者から重要史料として認められ、その著書などにしばしば引用されるようになっていることもあり、
今ではそれなりに論拠のある史料として認められるようになっている。