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「三河」スレッド
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0001境界線上の名無しさん
垢版 |
2012/02/23(木) 14:17:27.88
「三河」は出雲と日高見をつなぐキーゾーンである。
ヤマトに破れ、歴史から抹消された「三河」王権について語ろう。
0002天之御名無主
垢版 |
2012/02/23(木) 14:26:23.32
三河って家康の出身地でしょ。んでたしか江戸弁の元は三河弁なんでしょ。

んだけしか三河のこと知らない
0003天之御名無主
垢版 |
2012/02/23(木) 14:32:53.73
立てた後で後発であると悟った。
あちらは主に持統天皇行幸について語るスレッドのようなので、こちらでは主に穂の国=東三河と徐福伝説について語りたい。

穂→宝飫→宝飯(郡)らしいが、穂→豊とも考えられる。
つまり、穂の川→豊の川→豊川ではないかと?
豊の国は九州にも存在するから、重複を防ぐため豊の国と記載されることはなかったと考えられるが。

「ほむら」という呼び名もあったらしい。
穂邑であろうか?
攻められて燃え上がる炎の意味でもあり、東に逃げる人々の心に焼き付く風景だったであろう。

愛知と岩手には共通して多い名字がいくつかあるらしい。
岩手では炎を「ほのお」ではなく「ほむら」と呼ぶ。
人の感情を「ほむら」と呼ぶという意見もあるが、客観的ではない、炎を見つめる人の感情も込めているのだろう。
愛知、岩手での弾圧で自分たちの社会を破壊され続けるループの中で強くなっていった炎への感情が「ほむら」なのだ。

渥美郡は元は飽海郡だったとのことだが、同じ地名が山形県にある。
これも現渥美郡から現飽海郡への移住を示唆してはいないか?

東北地方との関連についてはよく調べる必要がありそうだ。
0004天之御名無主
垢版 |
2012/02/23(木) 14:36:07.69
邪馬台国も穂の国にあったという説がある。
狗奴国が尾張にあったという説が有力すぎて、邪馬台国の位置がかえってわかりづらくなっている。

卑弥呼の後の女王は「トヨ」というが、豊川は実は「トヨ」川なんだろうか?
0005天之御名無主
垢版 |
2012/02/26(日) 04:11:52.55
穂の国を主張する連中はほんと胡散臭いな
西三河から見てると噴飯もの
0006天之御名無主
垢版 |
2012/02/26(日) 23:38:12.14
アホだ、こいつら。

飽海川(大和朝廷)→吉田川(江戸幕府)→豊川(明治政府)となったのは、確実。

三川穂評の木簡から、穂の国は実在しないのが確実。

先代旧事本紀は平安中期の偽書で、穂国造もインチキで、
古事記の三川穂別を摩り替えただけ。

豊川は集落名で、三川豊川里の木簡から明らか。

穂国造の存在が東三河人に知られるようになったのは、実は江戸末期。
西尾人による三河志で言及されてる。
古事記伝や国造本紀考などの登場で明らかに。

そのため、戦国時代の史料に、東三河を穂の国という別名または古名で
呼んでいるモノはない。

穂国造は、偽書の旧事記以外に記載がなく、旧事記以前の史料である
古事記に、三川穂別。木簡に、三川穂評。と記載されており、
穂国造は完全否定されている。

0007天之御名無主
垢版 |
2012/02/26(日) 23:48:22.27
渥美郡は元は飽海郡だったとのことだが、

飽海評だけど。評の制度も知らないのか?このバカ?

ちなみに、八名評の木簡が出土しないことから、八名郡から後から
出来たのも確実。

設楽郡が宝飯郡から分割されているため、八名郡は渥美郡から分割?

650年〜700年ごろは、穂評と飽海評の2つしかない東三河。

そのうち、渥美郡は、伊勢神宮の神領として、三河国造が寄進したと
伊勢神宮の史料にある。

ゆえに、豊橋市が、八名郡にある穴倉を穂国造の王の墓なりなどと
言うのはまったくのデタラメなんです。

八名郡は、国造時代はおろか、650〜700年に存在しないし、
豊橋市は、宝飯郡ではないし、当然、穂の国でもない。

というか、今の豊橋中心市街が出来たのは、実は家康の時代。
それまで何もない原っぱ。



0008天之御名無主
垢版 |
2012/02/26(日) 23:56:42.80
川名の初見は承和2年(835)で、両岸の間が広くて架橋できない川の
官営渡船の増加を命じた6月29日付太政官符(類聚三代格)に、
三河国の飽海川(豊川)と矢作川は従来各2艘であったが各4艘に
増やすようにとある。

飽海川を知らないバカ。

0009天之御名無主
垢版 |
2012/02/27(月) 00:10:53.48
愛知県庁は、穂の国信者に占拠されているため、

豊橋の豊川が、江戸時代に吉田川と呼ばれていた事実を抹消している。

江戸幕府の公文書には、すべて吉田川。

徳川の三河物語にも、吉田川とはっきり書いてある。

ちなみに、徳川の史料に、吉田の古名あるいは別名が今橋なるぞ、という
ことは一切記載がない。
中央の公家の日記にも記載がない。

0011天之御名無主
垢版 |
2012/02/27(月) 00:41:00.78
朝廷、幕府の公文書で、豊川と確認できるモノ一切ナシ。

0012天之御名無主
垢版 |
2012/02/27(月) 01:08:21.08
飽海川や吉田川と呼ばれていたモノを、豊川なりと
最初に言い出したのは、三河国ニ葉松の共同編集者たち。
序文に、自分たちが名付けたって言ってる。

根拠は、矢作の集落→矢作川だから。

豊川という集落→豊川なり。

アホというか単細胞。

さらにこのウソを流布させて、藤原せいかという著名な学者が言い出したなどと
大ウソに変わる。

0013天之御名無主
垢版 |
2012/02/27(月) 01:40:32.15
豐河 (山崎闇齋・再遊紀行:參考)

吉田川 舊(もと)、豐川と謂ふ。今此の川より北一里ばかりに豐河といふ地名ありて河に非ず。蓋し風土記に所謂豐河上の長者の住みし處なり。

古くは、飽海川というので、間違いですね。

古事記傳  二十二〕
三川は、參河國なり、此國、男川、豐川、矢作ハギ川とて、三の大川ある故に、三川と名くと
り、〈男川は今大平川と云、豐川は吉田川なりと云り、或説には、男川は加茂郡より出て、池鯉鮒チリフの西今岡の東を、南へ流るヽ川なるべし、大平川には非じとも云り、〉

豊川は、江戸時代に吉田川と呼ばれていますね。

太政官符の飽海川から、旧名は飽海川。豊川は村の名前。

どうやら、最初に山崎アンサイという神道家が言い出したようですね。

0014天之御名無主
垢版 |
2012/02/27(月) 22:22:31.73
豊橋の主張

今橋→吉田→豊橋 これウソだね。

伊勢神宮の史料に、吉田御園が出ている。

だから、吉田ずっと→豊橋。

今橋は牧野氏による捏造ですね。
0015天之御名無主
垢版 |
2012/03/22(木) 11:16:06.89
三河スレッドはここと古代史専用の2つあるけど2つともいつの間にか豊橋叩きスレッドになってることにワラタ
0016天之御名無主
垢版 |
2012/03/22(木) 11:23:27.82
現渥美郡(飽海郡)と、山形県庄内支庁に現存する飽海郡の間には関係や交流はあるのかな?
現渥美郡から移民された可能性とか?
江戸期に庄内藩を介しての関係は当然あっただろうけど、郡名はもっと古いだろうからここでは考えない。

大和朝廷の東北侵略の第一歩になったのが持統天皇による三河行幸=三河侵略だった。
その過程で降伏した三河の被侵略民を兵士や技術者として百年かけて東北地方に送り込んでいった形跡がある。
0017天之御名無主
垢版 |
2012/05/03(木) 17:57:01.78
この地方ではおいなりさんは狐娘なの?
「…のお使い」って、だいたい神様の化身だから。
どうせお迎えするなら、この種島ぽぷらみたいな娘がよい。
http://www.moonphase.jp/minamoto/mt_img/koko.jpg
0018天之御名無主
垢版 |
2012/05/03(木) 21:28:48.76
>>17
豊川稲荷は托枳尼眞天という仏教系の女神がお稲荷さんの使いとして信仰されている
まあ、子持ちの女神だから少女じゃないけどな
お稲荷さんの使いのそのまた眷族なら少女かもしれんが
そのコテキャラはしらんがマスコットキャラの狐娘ちゃんは可愛いと思う
0019天之御名無主
垢版 |
2012/05/07(月) 11:02:43.32
ダーキニー様にも子供いた?
仏に帰依した際のエピソードが似ているハーリティー様(鬼子母神)と混同してません?
0021天之御名無主
垢版 |
2012/05/07(月) 15:26:22.52
でも、分布を見るとサンカの語源はどうも「三河」というわけではないようだ。
「山家」だろうか?
0022天之御名無主
垢版 |
2012/05/07(月) 16:28:57.08
1 名前:天之御名無主[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 10:44:37
「サンカ」の起源は「参河」であり、これは大和朝廷への服従を拒み持統天皇に放逐された「参河」地方の住民達の末裔である。

2 名前:天之御名無主[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 10:51:01
「参河」こと「御河」は出雲勢力が北陸地方、次いで中央高地を経て南下してようやく得た降雪量の少ない温暖の地であった。
古事記の記述から出雲勢力が諏訪に逃れたことが推察されるが、その後の進出ルートは詳らかではない。
「日玉」から山脈の西側を南下した勢力もあるが、この両者が南下した先はに「御河」地方がある。
イセ、オワリから侵入した大和朝廷の勢力と衝突する場所となり、出雲、吉備、東毛とは異なり、こちらは完膚無きまでに歴史上から消された。
穂の国も同様。
0023天之御名無主
垢版 |
2012/05/07(月) 23:35:26.68
むしろ、伊勢湾岸の人達が、ヤマトの侵略を受けて、逃げのびた先が出雲なのではないかと思うようになった。

p.s.その駄文書いたのは昨年の自分だ。デタラメだから信じるな!
0024天之御名無主
垢版 |
2012/05/07(月) 23:45:29.95
邪馬台国が三河近辺にあった可能性がある。
土器の形から倶奴国が尾張にあったという説が有力なようだが、それを前提にすると、三河にあったと考えるのがむしろ妥当だ。

誰も主張しないのが不思議!
0025天之御名無主
垢版 |
2012/05/08(火) 21:09:20.41
お前が主張したじゃないか!そう思うのならもっと大勢の前で叫んでこい!
0026天之御名無主
垢版 |
2012/05/08(火) 21:28:55.68
サンカを愚弄し、三河を愚弄し、今度は邪馬台まで愚弄するか!?
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