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世界、伝説上の英雄教えろください
0001天之御名無主
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2013/11/06(水) 00:22:23.70
アーサーとかジークフリートとかそんな感じのお願いします
0003源頼家
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2013/11/07(木) 01:33:31.91
概要

治世期間はたったの4年と短く、頼朝時代の老臣に掣肘されて大した業績を挙げられなかったものの、鎌倉幕府二代目将軍という立場と後述するあまりに凄惨な最期で一応歴史にそこそこの認知度を残すことが出来た。

御家人達を纏め上げ、幕府を盛り立ててゆこうという気概こそあったが、北条氏の政敵であった比企能員の娘(若狭局)に惚れ込み、
ついには彼女を妾にしてしまい、比企氏と緊密な関係になってしまったため実家の北条家との関係が悪化、その後ヤンデレママ政子に若狭局を殺されたことで激昂、
北条氏を皆殺しにしてやると息巻いたためご乱心として将軍の座から引き摺り下ろされて幽閉され、1年後変死した。
死因については暗殺説が濃厚で、しかも風呂場で刺客に襲われ、金玉を握りつぶされ、ペニスを切断されて悶死という大変ショッキングな死に様であったらしい。

愚昧で思慮分別が欠落した、典型的な親父の遺産を食い潰す駄目な二代目(例えるとしたら劉禅)としての印象が定着しているが、
親父の頼朝からは跡継ぎの器量無しの烙印を押されなかったので、辛うじて廃嫡された人物にカテゴライズされることを免れている。

ふぐり切断伝説の真贋

金玉を握りつぶされ挙句ペニスを斬りおとされて死んだというのは慈円の悪ふざけによる捏造ではないかという疑惑もあるが、
頼家の死から30年後、頼家の金玉を握りつぶしてペニスを斬りおとした刺客張本人を名乗る人物が、
鶴岡八幡宮に切断した頼家のペニス(らしきもの)を慰霊、供養のために奉納したという話が複数の史料に記述されており、
また面白がった口さがない野次馬達が脚色を加えて全国に喧伝したこともあって、
今では金玉を握りつぶされて死んだというのが半ば史実として定着している。

ちなみに、自称頼家のペニスを切断した刺客が奉納したと言われる頼家のペニス(本当に頼家のペニスかどうかは不明だが)は
今尚安置されており、閲覧料7165(ナウい息子)円を支払う事で誰でも閲覧する事が出来る。
閲覧した人の証言によれば「大根と見間違うほどの」サイズだったらしい。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/niberunku/hagene/1.htm
0004名無し
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2013/11/07(木) 01:43:12.32
亜細亜大学の田中双葉は人格障害
0005エジプト情勢に関し、緊急のお願い!!
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2013/11/11(月) 06:54:23.25
サラディン 《Saladin》  出身地:イラク
 アラビア語での名はサラーフ・アッディーンで、イラクのクルド族の出身。サラディンはラテン語名。
エジプトの遠征に参加した後にファティマ朝の宰相となり、1171年には新王朝アイユーブを開いた。
アッバス朝の承認を得て「スルタン(イスラム世界で支配者の意)」の称号を戴く。
 その後、シリア、イラク北部、イエメン、北アフリカにまで領土を広げ、
87年には十字軍が築いたエルサレム王国を滅ぼしてエルサレムを奪回。
92年に第三次十字軍と休戦条約を結んで、キリスト教徒のエルサレム巡回を許した。
十字軍との交渉で見せた寛大な精神と開明さは、後のイスラム教徒の間で英雄視されるようになった。
0006林檎の木(ソフィア)と生命の木(シェキナ)
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2013/11/28(木) 22:55:04.02
ガイウス・カシウスと言う名の、ローマ軍の盲目の兵士。
十字架にかけられたキリストを槍で貫いた事で知られる。
伝説では、キリストを刺した時に血がしたたり落ちて彼の目に入り、目が見えるようになったという。
その後、改心した彼は洗礼を受け、聖人になったとされる。
ロンギヌスは後に呼ばれるようになった名である。
 また、このロンギヌスの槍を手に入れたものは世界の王として君臨するが、失ったときに破滅するとも言われる。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3
0007精神科病院に関する統計最新版 - 精神科医の犯罪を問う
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2013/12/08(日) 23:15:07.93
ヘクトル  紀元前7〜8世紀

トロイア戦争の英雄。

ギリシア伝説で,トロイア戦争におけるトロイア軍の総大将。その名は〈支え手〉の意。
トロイア王プリアモスとヘカベの長子。アンドロマケの夫。アステュアナクスの父。
彼はたんに勇敢なばかりか,情理をもわきまえた名将としてよく祖国防衛の任にあたったが,戦争の10年目に,ギリシア軍最大の英雄アキレウスの身代りに出陣したパトロクロスPatroklos を討ち取ったため,
親友の死に奮起したアキレウスとの一騎打ちに敗れて戦死した。その死体は戦車に引きずられてアキレウスの陣屋に運ばれ,10日余も野ざらしにされたあと,莫大な身代金でプリアモスに贖(あがな)われた。
その後まもなくトロイアが陥落したとき,幼いアステュアナクスはアキレウスの遺子ネオプトレモスに殺され,アンドロマケの身柄は褒賞として同じネオプトレモスに引き渡されたという。
ヘクトルの活躍はホメロスの叙事詩《イーリアス》によってよく知られる

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%95%E3%83%AB%E5%90%8C%E7%9B%9F
0008里親さん募集です。推定3ヶ月 三毛猫ちゃん。
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2013/12/14(土) 08:54:23.58
アキレウス(アキレス) 紀元前7〜8世紀

トロイア戦争におけるギリシャ軍最大の英雄。

テッサリア地方のフティア王ペレウスと海の女神テティス との子。
赤子のころ,わが子を不死身にしようと願ったテティスによって冥界の川に浸されたが,
母親の手がつかんでいたかかと(踵)だけは生身のままに残った(←アキレス腱の名の由来である)。
成人後,出征すれば早世する運命にあるとの母親の警告をふりきってトロイアに渡り,
めざましい働きを示したものの,戦争の10年目に,捕虜の女奴隷をめぐる総大将アガメムノンとの争いがもとで戦闘を放棄,
味方を敗北寸前にまで追い込んだ。しかし親友パトロクロスの戦死を機に再び武器をとり,敵の総大将ヘクトルを討って友の仇を報じた。
彼はさらにアマゾン族の女王ペンテシレイア,曙の女神エオスの子メムノン等を討ったが,トロイア王子パリスに矢をかかとに射かけられて落命したという。
アガメムノンとの争いの一部始終はホメロスの《イーリアス》で有名。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm
0009「はたらく魔王さま!マグロナルド虎ノ門出張店」開催
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2013/12/19(木) 14:51:37.27
ソロン 前640ころ‐前560ころ

アテナイの政治家,詩人。「ソロンの改革」をおこなった。

王家から出た名門に属したが,富裕とはいえない家に生まれ,若くして海上貿易に従事した。前600年ころサラミス島の領有をめぐるメガラとの争いに市民を激励して名声を得,前594年アルコンに選ばれた。
当時のアテナイでは,平民である多数の農民が土地と身体を抵当として貴族から借財し,それを返済できない場合には土地を債権者である貴族に引き渡し,
収穫の1/6の納付と引きかえにその土地を耕作する,ヘクテモロイと呼ばれる隷属農民の地位に転落し,さらに1/6を納付できない場合には家族もろとも債務奴隷となった。
そこで平民は負債の帳消しと土地の再分配を要求し,貴族との間に激しい党争を続けた。ソロンはアルコンの地位につくと,調停者としての全権を委任され,
危機克服のための大改革を断行したが,市民は貴族,平民ともそれに満足しなかった。ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。
党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。
一説にキプロス島で死んだという。
彼はまたアテナイ最古の詩人であり,その抒情詩には快楽や富を肯定するものもあるが,多くは富者の貪欲と民衆の過大な要求を戒め,独裁政に反対し,
正義と中庸にかなった秩序と繁栄という彼のポリス理念を表現している。また彼はギリシア七賢人の一人に数えられ,〈やりすぎるな〉をモットーにしたと言われる。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~retutuki/nanarekisi/hougu.htm
0010天之御名無主
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2013/12/19(木) 16:10:16.41
>>3
「二代目暗愚説」ってあまり信じていない。
特に鎌倉幕府なんて綱渡りにつぐ綱渡りで出来た複雑な事情を持つ産物で、あれを血筋で維持するなんて不可能に近いと思う。
おそらく頼朝本人が二代目に生まれて来ても維持するのは無理。
0011天之御名無主
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2013/12/22(日) 12:41:23.98
>>3
劉禅って、元々蜀漢国力的にオワタに近いじゃん
それに40年国を持たせてるし。まぁ孔明とかのおかげもあるけど
親父の遺産を食い潰すって感じとは違うだろ
0012天之御名無主
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2013/12/23(月) 04:37:01.42
アッティラ
0013青いネコミミをつけた姿であったため全国の腐女子が歓喜
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2013/12/23(月) 12:52:08.50
>>12
アッー!!
0014I disapprove of what you say, but I will defend
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2013/12/23(月) 17:44:53.98
ペイシストラトス  Peisistratos  (前600年ころ〜前528年か前527年)

前6世紀アテナイの僭主。
ピュロスのネレイダイの子孫として、名門貴族の家系を誇った。40歳のころに僭主制を樹立。
その後5年間で敵対者を打ち破って、以後30年ぐらいペイシストラトスによるアテナイ支配が続いた。
彼の時代にアッティカ産の黒絵の壷がギリシャ全土で流通し始め、またアッティカ赤絵の製法も開発され、アテナイの商工業は盛んになった。
また中小農民に対する優遇政策を推し進め、彼らからの税収入がペイシストラトスの権勢を支えた。
『村の裁判官』を任命して巡回裁判をさせるとともに、自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ、彼の政治は後世『クロノスの時代』と呼ばれるほどに善政として知られた。
彼はまた、ホメロスの叙事詩をはじめて編纂した人物ともいわれている。

http://www.meigennavi.net/tb/word/038/038627.htm
0015対地震テンプレ拡散
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2013/12/24(火) 22:27:24.82
クレイステネス Kleisthenes (前570年?〜前507年)

前6世紀後半のアテネの政治家。アテナイに民主政を導入したことで知られる。
クレイステネスは民主派の支持をえてアテネの政治体制を根本的に変えた。
血縁にもとづくアテネ古来の4部族を廃し、都市部・内陸部・海岸部の3つの地区の住民から構成される10部族に再編成した。
さらに従来の四百人評議会は、各部族50人の代表からなる五百人評議会にかわった。この新しい制度のもとで民衆の国政参加の度合いは飛躍的に増大し、民主政の基礎がきずかれた。
オストラキスモス(陶片追放)の制度も、彼が創始したとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9#.E3.83.81.E3.83.BC.E3.83.A0THE.E8.93.AE
0016「はてなスペース」のユーザーを増やすために企画を募集
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2013/12/25(水) 19:33:38.26
テミストクレス Themistokles (前527年?〜前460年?、前462年?)

古代アテネの軍人・政治家。
前480〜479年の第2次ペルシア戦争の中で活躍、とりわけサラミスの海戦でアテネ艦隊の指揮し、ペルシャ軍を破る。
しかし勝利の8年後、陶片追放にあってアテナイから追い出され、遠いペルシアで客死。

http://blogs.dion.ne.jp/dear_you/archives/10206218.html
0017「拡散」して「リサイクル」してナンボ。
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2013/12/26(木) 22:39:39.44
ペリクレス (前495ごろ〜前429)

アテネの黄金時代を築いた古代ギリシャの軍人・政治家。演説の達人。
失脚の多いアテネの社会で、指導者としての地位を守り続ける。
彼の治世は決して成功ばかりではないが、彼はその失敗さえも良い方向に変えてしまう能力を持ち合わせていた。
33歳の頃にクーデター的に民主的改革を断行してアテナイの政権を握った。
支配権を握ってからは、徹底した民主政への施策を行い、スパルタとペルシアの両方に対抗する姿勢を強めた。
さらに前451?年にアテナイ市民権を両親ともアテナイ人である者に限ると定めた市民権法を成立させ、アテナイ国家の結束力を高めることに尽力した。市民団としての封鎖性を具体化させた。パルテノン神殿の建築はその直後の前440年代初めから始まる。
 前446年のエウボイア反乱に対しては厳しい処置で臨み,その直後,現状維持を図ってスパルタと三十年和約を締結した。政敵のトゥキディデスを陶片追放で国外退去させた後は連年将軍職に選ばれて〈一人支配〉を実現した。
パルテノンをはじめアテナイに美観を添える大土木工事が推進され,彼とその愛妾アスパシアの文化サークルには国の内外から多くの学者,芸術家などが集まって〈ペリクレスの黄金時代〉を現出させた。
しかし,前433年コルキュラの内紛に介入してコリントスとの対立を強め,翌年には〈メガラ決議〉によって隣国の通商活動に打撃を与えて反目を買い,前431年勃発のペロポネソス戦争への道を突き進んだ。
アッティカ住民を長城内に疎開させ海軍を主力に戦うペリクレスの作戦は,開戦翌年に疫病の蔓延を招き,同年将軍職を失ったばかりではなく,みずからも病魔に倒れた。

http://www40.atwiki.jp/genesis-ticket/pages/208.html
0018ハンガリーにおける哲学者の迫害に抗議する署名
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2013/12/27(金) 23:27:50.79
アルキビアデス (前450ごろ〜前404)

古代ギリシャ・アテネの将軍・政治家。栄光と流転の人生。

アテナイの名家の出で、父はクレイニアス、母はデイノマケ。
父が前447年にコロネイアの戦いで戦死したので、幼い彼はペリクレスの家で育てられるようになった。
巨額な父の遺産を相続し、アテナイ随一の人物(ペリクレス)を後見人に持ち、しかも類い稀な美貌を持つとあって、彼はわがまま気まぐれに育ち、傍若無人な性格となったという。 
学問について、彼はソクラテスの弟子となり、師の親しい友ともなった。ポティダイアの戦い(前432年)では師のソクラテスに命を救われたが、前424年のデリオンの戦いでのアテナイの敗走のときには、逆にアルキビデアスが徒歩のソクラテスを馬上から守ったという。
 しかしソクラテス以外にも、プロタゴラスやプロディコスなど、他のアテネ在住のソフィスト(哲学者)たちから受けた影響も大きい。
戦場でのアルキビアデスは非常に勇敢だったので、それをみこんだ有力者ヒッポニコスは莫大な持参金を付け娘のヒッポレテを彼に与えた。

http://auto2ch.doorblog.jp/archives/27303250.html
0019海面下の潜水艦から航空機を射出できますか?
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2014/01/20(月) 22:32:39.11
ペロピダス  前410ころ〜前364

テーバイの政治家,将軍。民主派に属し,前382年,スパルタ軍がカドメイアを占領したときアテナイに亡命したが,
前379年,帰国してスパルタ軍を駆逐した。前371年のレウクトラの戦,続くペロポネソス半島への侵入でエパメイノンダスとともに活躍し,
前369年以後はテッサリアのフェライの僭主アレクサンドロスと戦い,キュノスケファライで勝利したが,自身は戦死した。

http://dic.pixiv.net/a/LBX#h3_2
0020イデの力が解放したらどうなるか、誰もわかっていないんだぞ!
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2014/01/23(木) 05:45:56.81
エパミノンダス(エパメイノンダス) Epameinondas  ?〜前362

テーバイ(テーベ)の軍人,政治家。友人のペロピダスと協力してテーバイの勃興に貢献した。
前371年にスパルタとテーバイの友好が決裂すると、レウクトラの戦いで強豪スパルタを撃退した。
この戦いで彼は、従来の重装歩兵密集隊に改良を加えて,左翼を厚くした斜線陣形を導入し、これはギリシャ戦争史の革命といわれた。
前370〜前369年にペロポネソス半島に侵入し、スパルタを破ってメッセニア人を解放、スパルタに対抗する独立国家を樹立させた。
アテナイの海上支配にも対抗し、船隊を率いてエーゲ海を航行した。
前362年,4度めのペロポネソス半島侵入を行うが,マンティネイアの戦でスパルタ・アテナイ連合軍と交戦,戦死。
彼の死後テーバイの勢力は急速に衰えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E8%80%85%E7%8E%8B%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E3%83%A1%E3%82%AB#.E3.82.AB.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.81.AE.E9.81.BA.E7.94.A3
0021「カエサルはルビコン川を渡る際、11軍団の艦隊を投入した」
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2014/01/24(金) 08:24:05.17
マーメルクス・アエミリウス   (前5世紀)

ローマの独裁官。

紀元前426年に彼は三度目の独裁官となると、以前撃破してその王を戦死せしめていたフィディーナにとどめを刺すために軍を起こした。
 フィディーナ側はローマ軍の肝をつぶすためにフィディーナ市の城門から無数の投げ槍に火をつけたものを打ち出したが、
アエミリウスは少しも驚かず、騎馬隊をいったん丘の上に退かせ、炎の中で敵軍と乱戦状態にあった自分の歩兵隊の一隊に鋭く下知して敵軍のかがり火を奪わせた。
 一方で、丘の上に集結した騎馬隊に、すべての乗馬の装備をはずさせ、その裸馬の群れを敵勢の真ん中になだれ込ませた。 
ローマ軍の火攻めと馬をつかった反撃に、フィーディナ軍は大混乱をきたし、とうとうローマ側は大勝利を得た。

『敵勢にむかって攻めかかろうとて、火災に驚いて蜜蜂のごとくに逃げ奔るは末代までの恥辱、なんとしても取って返して敵にかかるは武士のつとめぞ。
フィーディーナを其の火で焼きはらへ、情け容赦は戰には禁物ぢゃ』
                   〜Suis flammis delete Fidenas, quas vestris beneficiis placare non potuistis〜
                                     ティツス・リーウィウス『ローマ史』

http://ja.wikipedia.org/wiki/BASTARD!!_-%E6%9A%97%E9%BB%92%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E7%A5%9E-
0022雑誌インタビューで仮面ライダーを邪悪展開化公言
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2014/01/30(木) 16:43:14.18
フィリッポス2世  (前382〜前336)

ギリシャ北方のマケドニアの王。 デルフォイ神殿をめぐるギリシア都市国家間の争いに介入し、勢力を伸ばした。
  前338年、デモステネスの主導するアテネ・テーベ連合軍をカイロネイアの戦いで撃破。
  同年、スパルタを除く全ギリシア都市にコリント同盟を結ばせ、フィリッポスをその盟主としてペルシア遠征を計画したのだが、私怨により暗殺された。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%AC
0023中国で甲冑って聞かんな
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2014/01/31(金) 05:18:19.06
アレクサンダー大王(アレクサンドロス3世) (前356〜前323)

ギリシャを征服した父フィリッポスの後を継ぎ、ギリシャ諸国を平定。
 その後東方遠征の事業を開始、ペルシャに進撃してダレイオス3世の大軍を撃破。 さらに東方に遠征して中央アジア、北西インドにまたがる世界帝国を実現した。
 征服地ではその制度・慣行を尊重し、東方民族主体の新帝国軍を編成、ギリシア傭兵の植民地定住策などにより東西の融合を目指した。
 前323年にバビロンで急死したため、さらなる遠征の計画は実現されなかったが、東西交流は活発化し、ヘレニズムと呼ばれる豊かな世界文化が開花した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E6%88%A6%E8%A8%98
0024天之御名無主
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2014/02/03(月) 19:16:59.14
デイビー・クロケット
0025天之御名無主
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2014/02/04(火) 13:12:27.27
バレンタインの季節です。
吉川裕(東北大学大学院)による贋ラブレターの計に注意しましょう!
身も心もズタズタにされます。
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発信者 よしかわゆたか
SUB RE:RE:RE:RE:百合とは何か

2/11 23:24

スカイプはつかってなけりゃあ、そもそもパソコンが今手元に無い。
研究室に置きっぱなし。そして私は今から寝る。「あーもーいいや、寝ちゃお寝ちゃお寝ちゃおーそう寝ちゃおー」と、
「ふわふわ時間」的に言いながら。ああ神様お願い。ドリームタイムください。
じゃあまた。
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