南方熊楠 [無断転載禁止]©2ch.net
まあ、本当の天才だろうな。
一休宗純、南方熊楠、種田山頭火は、尊敬出来る人物。 柳田國男との書簡は面白い。
山人論から性的放縦論まで。
南方が、紀伊半島という彼自身のルーツを見失わなかったのは素晴らしい。 岩田準一との往復書簡が一等面白いぞ。
皆とくと読め。 お薦めのバージョンの出版社等もう少し詳しい書籍紹介をしてくれたまい。 南方熊楠の代表的論考、燕石考で標的にしているのはマックス・ミュラーの太陽神話学なんだよね
マックス・ミュラー以前のそれまでの人類学は未開人の生活を記録し集めて支配の道具に利用しようとした冒険家や植民地の人間、宣教師に始まり
フーコーの言う古典主義の世界、デカルト的な明るい理性の光の下、啓蒙主義的、進歩主義で未開な社会は遅れた文化を持っている
ミュラーはそれが人間の時代、人間によりきめ細かい生権力を行使してフランス革命やナポレオンや国家総動員の時代の人類学だった
明るい透明な理性じゃなくその下に蠢く不透明な血や民族が問題にされる
啓蒙主義じゃなくよりファナティックなロマン主義、民族主義な人間に関する微細な支配が可能になった時代
南方はその哲学への批判を先行して行っていたわけ
人類学の主流は歴史主義でフレイザーみたいな未開人は劣った未開の思考をしている
一方、ミュラーらはそれはむしろ民族の地の叫びで評価すべきロマン主義だった
一見遅れている物にこそ民族の本質に根差した高い価値があると
南方はそれらを批判してそこには深い抽象作用と世界に対する微細な分析眼があることを既に理解していた フーコーは言葉と物で人間を生み出した人文諸科学を批判して、レヴィ・ストロースの人類学、精神分析、ソシュールから始まる記号学を人間を終わらせるものとした
南方熊楠が批判したのもその人文諸科学であって南方熊楠は野生の思考を実践していた
その後の人類学はマリノフスキーやラドクリフ・ブラウンの機能主義になるけどそれらは結局は未開人の中にも合理的な思考があると
優れた西洋社会から裁断するものでしかなかった
熊楠は鳥の巣あさりから分析を始めるが実はそれはレヴィ・ストロースの主著の神話論理も全く同じでレヴィ・ストロースの言う野生の思考や神話論理は南方熊楠が燕石考でやっていることと同じ
燕石考を書いた時、実は熊楠はレヴィ・ストロースやフーコーを五十年以上先行していた
信じがたいことにあの時点で熊楠は人文諸科学を批判して構造主義人類学を実践していた 燕の巣に石があるわけはないし、燕の巣に海の貝などがあるわけはない
でもロングフェローの詩に燕の巣の石を探し見つけたら幸運になるという言い伝えが書かれていて
かぐや姫の物語には姫への求婚者への試練の中には燕の巣の中にある子安貝を探すことが求められ求婚者は失敗して死ぬ
何故燕の巣にそんな物を探すのか
燕が低く飛ぶと雨が降る
これは燕が気圧や湿気の変化を感知しているわけではないが餌となる虫の方で感知しててそれを追いかける燕の姿は人の目を引く
雨や水に燕は結びつけられる
また、燕は人家にも巣を作り雛のためにかいがいしく世話をしていることが人間にもたやすく目にできる
ここから人類は恐ろしい直観で世界を神話的に把握する
燕石考と共に熊楠は鷲石考を書いていて両者が対であることを熊楠は完全に理解している
低い空を飛びかいがいしい燕はフェミニンで水属性で
高い空から地上の餌目掛ける鷲は男性性で火属性
燕は単独ではなく鷲との対で意味をなす
単独ではなく全体で関係の中の項として、これは構造主義
フェミニンな燕は子安貝などや幸せな家庭に結びつけられる
かぐや姫はそこから来ている
子安貝は元よりかぐや姫は月からの流刑人
また、出産は長い便秘であり子供を生むことと糞を出すことは一緒で取り替えがたい目も取り替えは可能
燕は雛の目を直すことができると信じられる
野生の思考、構造主義で無限に変換されながら世界を驚くべき明晰な論理で把握する
個々の要素は単独ではなく構造の中で無限に変換されて意味をなす
レヴィ・ストロースは主著神話論理を鳥の巣あさりの神話分析からはじめて南北アメリカの神話を無限に縦断するがこれは偶然ではない
主要な主題のヨタカは夜の燕と呼ばれ、燕と同じ神話的な役割を担う
実は熊楠のやっていることはレヴィ・ストロースと同じ
野生の思考や神話論理でやったことを熊楠は先んじてやっているだけ フーコーやレヴィ・ストロースが人文諸科学の行き詰まりの打開のために突き詰めたことをはるか昔に既に実践していたのが南方熊楠 凄い熊楠もオカルト気味のこの板じゃあまり盛り上がらないかな