【ARI】中後悠平(なかうしろ・ゆうへい)投手【3A】©2ch.net
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日本で戦力外、いまやメジャー目前。
中後悠平の“変則左腕”は通じるか。
http://number.bunshun.jp/articles/-/826486
VIPQ2_EXTDAT: none:none:1000:512:----: EXT was configured ワシントン州タコマで行われたマイナーリーグの試合で、
珍しい日本人対決が実現したのは、9月3日の夜だった。
青木宣親と中後悠平(なかうしろ・ゆうへい)。
元東京ヤクルトと元千葉ロッテ。
青木はマリナーズ傘下3A級マイナーのタコマ・レイニアーズ。
中後はダイヤモンドバックス傘下のリノ・エーセズの一員だった。
青木宣親については説明不要だろう。
一方の中後は、
変則の左腕投手として2011年のドラフト2位で千葉ロッテに入団。
日本プロ野球では37試合に登板して2勝2敗、防御率5.68の成績で、
昨オフ自由契約となり、今春ダイヤモンドバックスとマイナー契約した。 ロッテを戦力外になり、マイナー底辺から這い上がる。
青木は今年の6月に打率2割4分5厘と不調を極めて、自身初のマイナー降格。
メジャー復帰後は3割以上打って打率を2割6分5厘まで戻したが、
8月下旬になってチームから「投手陣のテコ入れをしたい」
という不可解な理由で再びマイナーに降格させられ、
タコマでプレーしていた。
中後の方は、日本のプロ野球を戦力外になった選手たちを追うテレビのドキュメンタリー番組がきっかけでメジャーリーグのスカウトの目に留まり、
2月下旬にダイヤモンドバックスとマイナー契約。
マイナーリーグの底辺であるルーキーリーグからローA級、ハイA級、3A級と段階的に昇格。
3A級では“左殺し”の救援投手として、9月3日までに12戦連続で無失点。
3A級昇格前のハイA級から数えると19試合連続(当時)で無失点記録を伸ばしていた。 日本ではすれ違った2人、アメリカで初対決。
34歳の青木と26歳の中後。世代を超えた2人の対決は、
ちょっとした洒落っ気から生まれた。
4−1と3点リードながら5回1死一、二塁のピンチに登板した中後は、
後続を打ち取って救援に成功。続く6回も走者を出しながら、
抑えてマウンドを降りる予定だった。ここでネビン監督が気を利かす。
「日本人対決してこいよ」
7回の先頭打者は青木だった。
中後がプロ野球でのキャリアを始めた2012年は、
青木にとってのメジャー挑戦元年。つまり“入れ違い”であるから、
両者に日本での対戦経験はない。
カウント2−2からの5球目、
中後は「最後は青木さんも絶対スライダーを待ってる」と考えた。
だが同時に、「そのスライダーは僕の武器ですからね」と腹を括る。
日本でのキャリアもアメリカでのキャリアも相手の方が上。
でも今、この瞬間は関係ない。ここで生き残るための最大の武器を、
ただぶつけるのみ――。 キャッチャーが外角低めに構える。三振を奪いにいったスライダー。ところがこれが少しだけ甘く入った。ライナー性の鋭い打球が、左中間に飛ぶ。そこに駆け込んだのは中堅手。記録としては中飛。中後の「勝ち」である。 青木はカーブに驚き、中後は悔しさをにじませた。
「初球のカーブなんか、思わず体がビクッてしたぐらい切れがあった。
あれは左バッター相手に使えると思うし、頑張って欲しいよね」
青木はそう初打席を振り返った。中後の方はどう思ったか。
「打たれた瞬間は絶対に左中間抜かれたと思ったんで、
結果はアウトでしたけど勝負としては僕が間違いなく負けました」
屈託のない笑顔に、ほんの少しだけ悔しさがにじみ出ていた。
「スライダーで三振を狙いにいった中で、
力んで真ん中に入ったというのが自分の甘さ。
それを見逃さずに完ぺきにジャストミートして持って行ったのが青木さんの実力。さすがです」 「よく頑張ったな」とはまだいえない。
中後の言葉にはどこか、自分自身を客観視しているような響きがあった。
悪い意味ではない。
彼はすでに日本で戦力外という野球選手にとっての最終通告を受けたのだ。
元日本プロ野球のタイトルホルダーだとは言え、
たったひとりのマイナーリーガーを打ち取ったぐらいで一喜一憂しているわけにはいかない。
だからマイナーでの無失点記録も、今の彼にとっては来年への布石にすぎない。
「これぐらいせなアカンという気持ちで来たんで、
『よく頑張ったな』というのは自分の口からは言えない。
でもアメリカでいろんな経験をして、
こういう風にできたのは良かったのかなと思うし、
その中で自分がブレずに、負けずに自分のボールを投げられたのが大きい」 変則左腕という武器を磨いて、メジャーへ。
中後は5日の最終戦にも登板して、
マイナーでの無失点記録を20試合、
3A級での同記録を13試合にまで伸ばすことになったが、
彼にとって大事なのはその結果以上に、1つのヤマを乗り越えたことにある。
「ハイAに上がった時、相手の打球が飛ぶから、
抑えなアカンと必要以上に意識して体が前に突っ込んだりして、
課題にしていたコントロールがおかしくなった。
あの時、監督やコーチにどうしたらいい? と聞いたら、
帰ってくる答えはいつも一緒だった。『楽しんでやればいいよ』と。
その頃はマウンドに立つことが楽しくなくて、楽しもうと自分に言い聞かして投げて」
素直に弱音を吐くことによって得るものはあった、と中後は言う。
「日本にいた時の僕なら、もう駄目だとか、
どうしたらいいか分からなくなって、
あのままズルズルいってしまっていたけど、
嫁さんも子供たちも日本に置いてきてるんで、
ここで踏ん張らなアカンとマウンドで思えて抑えられた。
あそこが僕のアメリカでの分岐点だったと思う」
メジャーリーグに這い上がるために、
時速150キロを超える速球は要らない。
必要なのはそこへたどり着いてやるという強い意志と、
中後の場合、150キロを超える速球の代わりとなる“一芸”である。
幸いなことに、彼には“変則左腕”という武器がある
あとはそれを磨きに磨き抜くだけだ。
一度は断たれたプロ野球選手の道。ユウヘイ・ナカウシロが切り開いた道は来年、夢のメジャーリーグへと続いている。 ロッテ入団時の契約金が8000万円か。
http://kyuyo.net/keisan/syotokuzei_07.htm
当時の税率だと所得税で3000万円だから残り5000万円。
妻子がいても10年は安心して生活できるな。
ロッテに感謝だな。 昨オフにロッテを戦力外となり、今季はダイヤモンドバックス傘下3Aで13試合無失点と結果を残した中後悠平投手が、Full-Countの独占インタビューに答えた。
プロ入りから4年でロッテを退団した変則左腕は、
12球団合同トライアウトを受けるも、
3打者に対して2四球1死球と結果を残せず、NPB球団からは声がかからなかった。
一時はBCリーグ武蔵ヒートベアーズに入団が決まったが、
テレビ番組で中後の投球を見たメジャースカウトの目に留まり、
複数球団が興味を示す中、ダイヤモンドバックスとマイナー契約。
自らの力で這い上がった。 ルーキーリーグから3Aまで昇格し、13試合に登板して10回2/3を7安打無失点13奪三振3死球。防御率0.00で
シーズンを終えた。
関係者によると、ダイヤモンドバックスは結果を残した中後のメジャー昇格を球団内で真剣に検討したという。
結局は、チームが69勝93敗と低迷したため、勝負をかけるシーズンではないと判断。
メジャー40人枠に入っている若手選手を自由契約にしてまで、今季中に中後を昇格させる必要はないと考え、
最終的には見送られた。ただ、メジャーでも戦力になると評価されていたことは確かだ。 オフに入り、日本で自主トレを続ける中後。
ダイヤモンドバックスは来季も契約する方針だが、
メジャー昇格まであと1歩に迫った本人はどのように考えているのか。
日本復帰の可能性はあるのか。27歳の胸中に迫った。
――まずはダイヤモンドバックス入りの経緯を改めて聞かせてください。
ロッテを戦力外になってから、
あのような道が開けたということについては驚きましたか?
「『まさか自分が』というのと、正直、アメリカには全然興味がなかったんです。
埼玉の武蔵ヒートベアーズに行って、1年間だけやると決めていました。
でも、12月の戦力外のテレビ特番で見てくれている人がいて、
声がかかりました。
話をもらった時には、正直、アメリカはイヤだったんですけど……。
メジャーといっても、日本人の凄い選手が活躍しているチームのニュースを見るくらいでした。
自分から情報を取りにいったりは全然していなかった。
だから、話をもらった時にはすぐに返事をしなかったんです」 ――迷ったんですね。
「迷ったというか、ほぼ行かないと(考えていた)。
一番最初のDバックスの話は、マイナーキャンプの招待選手として3月から来ないかというものでした。
失礼な話ですけど『そんな話だったら行きません』と返事したんです。
そこまで余裕はないし、家族もいるし、マイナーの招待選手で行って、
ダメで帰ってくるとなったら、せっかく武蔵に行くと決めたのに、
それを蹴って、帰ってきたらまた職がなくなってしまう。そうなったら僕、
何もないので。そうなりたくないので、『それなら行きません』と。
『最低でもマイナー契約してくれるなら考えます』と話をしました。
その時のDバックスには『それは無理』と言われました。
『初めから何もない選手がいきなりマイナー契約というのは、なかなかないから』と。
ましてやクビになっている選手だったので。 そこからフィリーズとレンジャーズが見に来てくれて、
レンジャーズはすぐにマイナー契約したいと。
そこからDバックスが、多分、球団の上の方の人が映像を見てくれたと思うんですけど、
『ぜひともマイナー契約したい』と。
その時には、『育てる方針じゃなくて戦力として取りたいから』と言ってくれたんです。
『もちろん、最初は(マイナーの)下の方からかもしれないけど、
頑張れば上がれるし、年齢も年齢だからそんなに長いことはできないかもしれないから、
一発勝負で頑張ってほしい』ということでした。
『それだけDバックスは左ピッチャーが不足しているから、
やってほしい』と言われて。そこでDバックスのことを初めて調べたんです」 ――それまではほとんど知らなかったんですね?
「知らなかったんです。そこで調べてみたら、本当に左ピッチャーが少ないし、
戦力外になっていた。40人枠に入っているピッチャーも年齢がけっこう高い。
ただ、レンジャーズの方は左ピッチャーを補強して成功しているんですよね。
そう考えると、どっちにチャンスがあるかというとDバックスだなと。
そうしているうちに、自分がアメリカでやることを前提で考えていたんですね。 あと、嫁さんは絶対にアメリカに行ったほうがいいと言ってくれました。
失礼な話かもしれませんが、
『アメリカの野球と日本の独立リーグとどっちがレベルが高いか、どっちが価値あるのか。
普通に考えたらアメリカでしょ』と言ってくれたんです。
もちろん、僕も野球以外にも、人生経験として得るものがあると思ったので。
あとは押しですよね。Dバックスが色々と言ってくれたので、『やらせてください』と」 ――契約した後もなかなかビザがおりず、不安もあったと思います。
「2月29日に契約書にサインして、ビザも2週間くらいで大丈夫だからと言われていたんで、
その間も武蔵の方で練習させてもらっていて『ありがとうございました』って終わったんですけど……。
そこからビザがおりなくて、4月2日にやっとビザが下りたんです。
不安でしたよ。家族と離れるのもイヤでしたし、日本を離れるのイヤでした。
最終的には通訳もついたんですけど、行く当初は通訳をつけるという契約もなかったので『絶対にやっていけへん』と思って」 ――通訳が正式につくまでは約1か月あったそうですが、その間はトラブルの連続でしたか?
「練習とかは、流れが分かってきたので。チームメートともコミュニケーションは取りますけど、
深く喋ることはできないから……。試合して、帰って、ご飯食べて、
という感じだったので。
ただ、ご飯を食べる時は、その後に通訳になる人が来てくれたりしていたんです。
ただ、休みの日だけが大変でしたね。
何もすることないし、ご飯も出れないし、買いに行けない。
ホテルのカップヌードルを買って食べたりしてました。
車がなかったので。通訳が車を持っていたんですけど、彼が来ないと動けないという状態でした」 ――マイナーは過酷だと言われます。行く前は覚悟して行きましたか?
「そうですね。過酷ですけど、最初(ルーキーリーグ)は高校野球みたいな感じで。
そこから大学野球、社会人と上がっていって、
3Aまでいくと日本のプロの1軍みたいな。そんな感じです」
――「これはきつい」と言うのはなかったですか?
「個人での飛行機移動ですね。昇格する時は、個人で移動するので。
一番最初にフェニックスから移動する時に、空港で3時間遅れだったんです。
朝6時の便だったんですけど、その飛行機に乗らないと、
乗り継ぎもあって試合前に間に合わなかったんです。
7時か8時の便があったみたいですけど、
どうせ行ったところで間に合わなかったので、3時間待ちの飛行機に乗って。
シカゴについて、そこから乗り換えの飛行機も1時間遅れてて、散々だったんです。
朝4、5時に起きて、時差も入れて、着いたのが夜の10時でした。それが一番しんどかったです」 ――単身赴任で海を渡りましたが、家族がアリゾナに行かれたことは?
「1回だけ1週間来ました。それだけです。3Aの時、(本拠地の)リノに。
ちょうど3Aに上がる日に、ハイA(1A)の場所に来るはずだったんです。
なので、すぐチケットを取り直して。
ロサンゼルスまでは変わらなかったので、まずはロスまでは行って、
そこから遠征先のソルトレイクまでの飛行機を取って、という感じでしたかね」
――長旅だったんですね?
「長旅ですよ。ソルトレイクから僕らはリノまで飛行機で帰ったんですけど、
子供もいるので続けて飛行機に乗せるのは悪いから、
僕の知り合いも来て、その人が英語も喋れるので、
その人と一緒にレンタカーを借りて7時間かけて」 ――家族はアメリカで投げている姿を見て喜んでいましたか?
「まぁ、嫁さんは野球知らないので。
多分、抑えたとか打たれたとかは分からないですけど、
頑張っている姿を見て嬉しかったんじゃないと思いますけど。
僕も会えて嬉しかったですし」
――渡米後は順調にステップアップして、最後は3Aで13試合無失点という成績を残しました。
メジャーに上げるかどうか、球団内で話も出たといいます。
手応えもありましたか?
「あったといえばありましたけど、見下すような感じはなかったですね。
『行ける』『抑えられる』みたいなのはなかったですね。
常に抑えてやろうという気持ちだったので。
その中で自分の抑え方が分かってきたというか。
日本にいたら、1軍でも自分の力を発揮できなかったり、
自分からコントロールを乱していた。やっぱり制球が課題でした。
フォアボールが原因で、打たれて、自滅して、というピッチングが多かったので。
それでクビになったようなものなので、
やっぱりアメリカでそういうことをしないと心がけていました。
じゃあ、どうしたらストライク先行のいい抑え方が出来るのかということを考えて投げていました」 ――米国で制球難をどのように克服したかは、後で聞かせてください。
Dバックスの成績が悪く、チーム事情もあって、
今年は中後さんの昇格を見送ろうという話になりましたが、
やはりメジャーに上がりたかったですか?
「もちろん、上がったらこっちのものですし、そのまま来年40人枠ならメジャーキャンプですし、
勝負しやすい。自信にもなりますし、1試合でも投げておけば、
その時のイメージがそれなりに分かります。
やっぱり上がりたかったですけど、
でも、その(チーム)状況は僕も知っていたので。
若手中心というのもありますし、僕が入ることによって、
1人を自由契約にしないといけない。
ましてや、その後に大型補強とかで12月に色々と変わってくる。
その時に誰が入って、誰が外れるか、という話になってきます。
あとはお金の問題もあります。それも言われたんですね。
こういうチーム状況で、経理の方からもOKが出なかったとも聞きました」 ――それでも、アメリカに全く興味がないというところから始まって、最終的には結果を残した。
アメリカでやることの魅力を感じましたか?
「日本ではダメな結果ばかりでしたけど、アメリカでは抑えられた。
マイナーですけど、3Aまで行って抑えられたので、
いいイメージはありますよね。こういう投球ができたから、
来年もそういう投球が出来るというイメージは沸いてますし。
今もし、ここで日本でやるとなると、
まだ日本のイメージ、ダメだったイメージがまだ頭にあるので、
日本(の球団)から話をもらったら、
もちろん僕は日本のプロ野球で野球をやりたいというのが第一なんで……。
その中で、途中でこうやってアメリカで野球をやってメジャーに上がれる一歩手前まで来たからには、
メジャーに上がりたいという気持ちもありますけど……それは両方あります」 ――インディアンスの村田投手は、昨年メジャーデビューして、オフには日本の球団が興味をもっているという話もありましたが、
アメリカで続けることを選びました。
「村田さんとは地元も一緒で、お会いしたことはないですけど、
知り合いを通じて連絡先を交換して、よく連絡を取っていました。
村田さんも多分、同じじゃないでしょうか。
もちろん、メジャーに一回上がったし、そこまで行くレベルに来ている。
自分はメジャーで投げられると思っているでしょうし。
そこで日本のプロ野球界とMLBとどっちが上かといったら、
それはMLBが上ですよね。そこで投げられるチャンスがある。
やっぱりどっちで投げるのがベストなのかとなると、
メジャーのマウンドがいいですよね。
あとは、アメリカでやったからって、日本で100%抑えられるかといったら、
そういうことじゃない。それも含めたら、そう思ってるんじゃないですか。
僕はそういう感じです」 ――正式には、もうちょっと話が出揃ってから決めるという感じでしょうか?
「そうですね。Dバックスはシーズンが終わったんで、ここから話が来ると思いますし。
日本はまだ日本シリーズがあるので。
ただ、たかが1年、たかが3Aで13試合なので、
それで日本から話が来るとはあまり思っていません。
みんなから『日本に戻ってくるの?』とか言われますけど、
実際にそんな話ももらってないですし。
日本の球界に戻れるのであれば、家族もいますし、楽しくできますし、
楽だし、と思いますけど、絶対にそんな話はないので。
今のところは来年も契約してくれるというDバックスでやろうと思っている状態ですね」 ――来年の春はメジャーキャンプに招待選手で参加する、という可能性も高いと思いますが?
「エージェントの方からは、球団から聞いた話として『メジャーキャンプから』とは言われてるんですけど、
実際に球団からは聞いていないです」
――それでも、1年前から考えられないところまで来ました。
「本当に考えられないですよ。メジャーに行っていたら、
本当にとんでもない大どんでん返しでした。だから行きたかったんですよ」 ――メジャーまであと1歩です。
「でも、ここでメジャーに行かなかったというのは、まだまだなんですよ。
と、僕は思ってるんです。プラスに考えています。
また来年、勝負をかけるためなんだと思っているんです。
すごくいい選手をメジャーに上げるのであれば、どんな事情があっても、
フロント全員が『じゃあ中後を上げよう』となっているじゃないですか。
何かが足りなかったというか、まだまだインパクトを与えられていなかったと思っているので、
来年もアメリカで野球をするのであれば、
また首脳陣、フロント側にガツンとアピールしたいです。
また来年、1からスタートなんです。やることは明確なんですよ。
左バッターの内角にツーシームやシュートを投げられたらベストなので、
それはずっと練習してますし。リセットして、しっかり練習して。
『去年、メジャーに上げるか上げないか悩んだピッチャーだな』と思ってもらえるように。
『あの時、逆に上げなくてよかったな』と思われたいんです。
秘密兵器みたいな感じで。『今年からこいつを使おう』と思われるようなアピールがしたいですね」(続く) 【MLB】ロッテ時代は制球難で「自滅」 米国で復活した左腕はなぜ課題克服できた?
Full-Count 10月22日(土)12時21分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161022-00010005-fullcount-base https://www.youtube.com/watch?v=CUdrzzb4_6E
2016年4月、1人の男が家族に見送られアメリカに渡ろうとしていた。中後悠平(26)。
妻と生まれたばかりの長男を日本に残し、単身アメリカに渡る。
長ければ半年以上、会うことはできない。出発の時、涙がこみ上げた。
それは、プロ野球をクビになった男のまれにみる異例の挑戦だった。
2015年、千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けた中後は、現役続行を目指し、12球団合同トライアウトを受験。
しかしアピールできず、プロ野球界復帰は叶わなかった。
それでも野球を諦め切れず、年収150万円と言われる独立リーグに入団。
プロ野球界復帰を目指し1年間頑張ると決めた。
ところが、その矢先の2016年1月、思わぬ展開が訪れた。
テレビ番組で中後が見せたブルペンでのキレの良いピッチングを日本在住のメジャーリーグ関係者が注目。
すると、メジャーリーグの球団、ダイヤモンドバックスが中後に入団テストをしたいと連絡してきたのだ。
そして、入団テストの末、合格した。それは思いもよらないビッグチャンスだった。
メジャーリーガーになることが出来れば、最低年俸5200万円が保証される。
突然、目の前に開いたアメリカンドリームに、中後は全てを懸けて挑もうと家族を日本に残し、
単身アメリカに渡ることを決めた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています