馬鹿丸出しは15年前に美沙子という架空の恋人を自慢して悦に入っていた。
どうやらタレントの安田美沙子が右手の恋人だったようで、大袈裟に自慢をしていたわけである。
残念なことに、真っ赤な作り話とはいえ、文章構成から表現方法、場面設定や語彙選択もお寒い限りだったのは当時から際立っていた。
本人にしてみれば、デートや研究生活など実際にした経験もないわけで、TVドラマやエロ小説をパクれば真実味が出るとでも思っていたのだろう。
そういう軽率な思考はその不治の幼児性ゆえに現在に至っても改善されず、ベタな多重自演を続けている姿からもうかがえる。
また、人とのコミュニティを築けない反動が性の特殊遊具へ執着するという悲しい因果を招いているわけになる。
つまり馬鹿丸出しにとってのリアリティは疎外感に裏打ちされたものであり、絶望と閉塞に向き合う日々の暮らしに導かれているといってもいいだろう。
だからこそ、お先が真っ暗な人生を自己否定するためにも作り話を用いて未来形完了を策している。
その小話こそが唯一の社会とのドアであり、実生活ではありえない人とのコミュニケーションを可能にする。
馬鹿丸出しの嘘がリアリティを欠いているのは本人の文才の無さだけではなく、突っ込み所を敢えて提示することで人が注目してくれることに気づいているからだ。
裏を返せば、誰からも構って貰えず完全スルーされることを絶対に避けたいということになる。
そういうメンタリティが白々しい嘘や非現実的なドヤネタの深因にある点を理解してやるべきだろう。
本当の意味において、心身とも寂しく幸せというものを知らず孤独という固定生活に抗う老人の叫びが聞こえるだろう。
ネットという唯一無二のコミュニティを失うことは馬鹿丸出しの完全抹消を意味することだから。
そう考えてみると、臭い猿芝居に反応してあげることは孤独な人間を幸せに与えることへ繋がる。
頭が悪い馬鹿丸出しではあるが、本当に丸出しにしているのは淋しさなのだから。