「二刀流」というのは「どうやったら打てるか」「どうやったら三振をとれるか」という理論ではなく、
打者としても投手としても活躍できる人間力を認められたいという抽象的な願望・イメージでしかないのではないか?
しかし抽象的なイメージを拠り所にしている人間ほど脆いものは無い。
「自分は二刀流できる鋼の肉体を持っている」というイメージで脳内を100%にしても、怪我で現実を見せられれば一瞬に拠り所を失う。
どうやったら限りある肉体資源の中で最大のパフォーマンスを出せるかを計算し、それを拠り所とするべきであった。