>>119
当時の立教高、立教大はスポーツ推薦はなかったけど、一茂に関しては「あの長嶋茂雄の息子」ってことで、野球云々でなく
「長嶋ワク」のような形で高校入学時何らかの下駄を履かせたことはあるかもしれない。(一茂が成績良くなかったと言ってるわけではないw)
そもそも一茂は中学校では野球をやってなくて、野球による高校入学ではないのは確か。
学業に関しては
何故か一茂の代だけ高校から大学に上がる推薦枠が増えていて
それは成績がよくなかった一茂を枠に押し込む為だったんじゃないかという都市伝説みたいな話がある。(真偽は不明w)

当時の立教高、立教大は、偶然いい選手が揃ったのか、野球推薦なんかなかったのに異様に強かった。
1982(昭和57)年春 立教高 埼玉準優勝・関東大会出場  (一茂が高二・関東大会での背番号はたしか16)
1983(昭和58)年夏 立教高 埼玉ベスト4  (一茂が高三、背番号3で四番)
1985(昭和60)年夏 立教高 埼玉優勝で甲子園初出場 
              (この年が埼玉県初の私立校甲子園出場 春:秀明、夏:立教 それまでは公立しか出たことがなかった)
1987(昭和62)年秋 立教大 東京六大学で優勝争いするも、最後に法政に敗れ惜しくも二位 (一茂が主将四番、立教高出身の高柴がエース)
1989(平成元)年秋 立教大 東京六大学で優勝 (立教高甲子園メンバーや甲子園出場の磐城高金賀捕手等、スタメン7〜8人が甲子園経験者)
1990(平成2) 年秋 立教大 東京六大学で優勝・明治神宮大会で準優勝 (湘南高から一浪後入学した現立教大監督の溝口智成が主将)

一茂以下3年連続で立教大主将がドラフト指名 1987:長嶋一茂 88:矢作公一 89:黒須陽一郎(※黒須同期の高林孝行は日本石油時代全日本)

当時の立教大は推薦制度は指定校しかないこともあり、他大と比較すると圧倒的に部員数が少なく選手層も薄かった。
法明早慶とは大きく差をつけられ、常に東大と最下位争いをしている状態。
立教高も、今の早実や慶應高のような野球推薦があるわけでもなく
「埼玉近辺の育ちのいい子たちが野球をやってる」って感じの野球部だったけど、この「一茂世代」周辺は戦力はかなり高かった。 
この辺も、一茂が「もっている」ところなのかもしれないw