【最優秀防御率】柳賢振応援スレ part5【確実】
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>>212
馬鹿なお前のために歴史いっぱい教えてあげてるんだよ?
ちゃんと俺に感謝してる?笑 長田忠致
長田氏は桓武平氏良兼流で、『尊卑分脈』による記述では忠致は道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという 治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した 義朝を討った功により忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買い処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。 後に源頼朝が兵を挙げるとその列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り懸命に働いたという。
しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。 。また処刑方法も打ち首ではなく「土磔(つちはりつけ)」と言って地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺したという。 刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守 身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています