ノンフィクションライター・前川仁之氏

ソウルで同行した韓国人女性姉妹に他愛ない御国自慢を求めたときのことだ。
「韓国にはあるけど日本にないもの、なにかありますか?」と訊ねると、妹の方が顔を輝かせて即答した。
「女子フィギュアスケートの五輪金メダル!」
未だに2010年バンクーバー大会でのキム・ヨナ選手の活躍を言っているのだ。
「誰かいますか? アジアでも、キム・ヨナが最初じゃないかしら」
その時私は、なんか変だなあと感じながらも、あの大会で浅田真央選手が一歩及ばず銀だった印象ばかりが強く、大切なことをすっかり忘れていた。

「それなら韓国にはノーベル賞は金大中(平和賞)しかいないけど、日本には自然科学も含めてたくさんいますよ」とやり返し、
そこから楽しく盛り上がったのだが、さて、二人と別れて翌朝のこと。

「荒川静香がいるじゃないか!」
出し抜けにトリノ五輪のヒロインを思い出した。それこそアジアでも彼女が最初だ。
私は前夜の迂闊さを恥じたが、ちょっと考えると別に恥じるほどのものでもない。
むしろこのくらいの物忘れは思想・信条の自由の証拠として胸はってもよい。

たぶん私たちの多くはアスリートを日本国の名誉とかいったごてごてした意味づけとは離れたところでよろこび、祝福していたのだ。
御国自慢の会話の流れで思い出されなかったのは、そのせいだろう。

一方キム・ヨナ選手の場合、五輪大会前から「日本の」浅田真央選手を敵役にした煽りの報道がヒートアップしていたのは私たちも知っている。
国家の名誉を過剰に押しつけられた彼女が、日本選手を負かして金メダルに輝いた。
当時の熱気でもって派手に焼きつけられたせいで、「日本に先んじた快挙」と記憶してしまったものと思われる。

「歴史の捏造」と責めてはいけない。

いわば日本についての、構造的な物知らず、事実誤認。
よく言われる「ウリジナル」というやつも私はその実例に出くわしたことはないが大半は、ものを知らない結果素朴に信じ込まれるにいたったのではないだろうか。