嘔吐博覧会
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エリザベス朝の劇場にかんする予備知識が無いとシェークスピアは難解に思える ロンドンに常設劇場ができたのは1576年
シェークスピアが少年時代のころである
ここから清教徒革命が起こるまでの70年間エリザベス朝の小劇場が存続していた エリザベス朝の小劇場の特徴
・狭い
・幕がない
・背景がない
・立体的に三つの舞台を組み合わせて演じる(外、内、二階) とにかく狭い、背景がないので言葉と身振りが重要な表現要素となる
一語一語に登場人物の心理の陰影がうつしだされる 太陽光が直接入って来る構造で光による大々的な演出はもちろんできない
視覚的な効果や散文による写実的ドラマを演じるには不向きなので
言葉と身振りによって観客の想像力をかきたてる浪漫派の作風が必然的に生まれてくる
シェークスピアの作風はつまるところこの劇場の構造に非常にマッチしていたのである ドストエフスキーは読むの辛いがシェークスピアならなんとか読めるな
ドストはセリフの勢いがすごすぎて疲れる 女役を声変わりする前の少年にやらせていたらしいな
それで女役が男装するという筋書きも増えることになる 当時のロンドンのことを想像しながら読むとそれなりに楽しい ロミジュリなんかは立体舞台を隙間なく駆使して凄まじい勢いで演じられたらしいな
今で言うジェットコースター的な展開か 古代ギリシアのように時間軸が一本筋なのではなくて観客の想像力をかきたてて
頻繁に場面や時間を転換させる
これが革新的だったのだろう 悲劇ではハムレットが一番複雑(解釈が複雑になるという意味) 単純にいえば敵討ちして自分も死ぬだけの話だが
問題はハムレットの敵は自分の内にいるということ
心理学者のフロイトはハムレットを勝手にオイディプス・コンプレックスのネタにしていた
命令はどこから来るのか? 分かりやすい障害を外側に設定しないことからハムレットの性格に対する
無数の解釈を生み出してきた
心理学の教科書にも頻繁に出てくる エリザベス朝劇場の言葉がものいう世界とシンクロ
言葉であらわさないと何も出ないぞコーデリア 絶対権力をもつ王様はどこにも逃げられんからな
無いものに頼るわけにはいかんのだ
有と無の二重性などしらぬわ 東洋と西洋を対のようにしてみた場合はかなり広範の国が含まれるらしいが キリスト教を敵視している人がいるがあれはキリスト教をもっと広めてくださいと願っているようなものだ
あなどりすぎている よほど強い恨みでもない限り無関心でいたほうがいいのかもしれん 久しぶりに2chmateを覗いたら犯罪まがいの画像キャッシュデータが大量に入っていた
これってスレッドを開くと貼り付けてある画像のデータ全部勝手に保存してしまうのだな
設定で何とかしとくか ネタバレスレとか場違いにエログロ画像を貼り付けるやつが多いからな 何度も見ている人がいること前提でやると良い意味で力が抜けてざっくばらんになってゆくのかもな シェークスピア素人だからな俺
本物の劇場で見たことなど一度もない
映像では何度かあるが ほのぼの鬱ゲーの、丁寧に壊れている感じがどうも肌に合わない 健全なJRPGってドラクエと桃太郎伝説のことだろう 西洋のゲーム関係者がドラクエを保守的すぎると貶すことが多いらしいが
日本はそういう国だから 同じシステムをずーっと引き継いでいることに対してだろうけど
ツクールなんて根幹システム全部ドラクエだからな RPGの形式でドラクエ以上によくできたのが無いというね 桃太郎の物語も軍国主義作るのに利用されたこともあるが
仏教と御伽噺の感覚を大事にしていれば問題ないだろう 比喩と美化、大げさな装飾を交えすぎるとどんな話でも胡散臭くなる ツクールで反射神経を競うアクションとか入れるなや
少し挙動がもたついただけで操作ミス連発だ |┃三 ガラッ! ┌───┐ミ
|┃ . |>>1乙 |
|┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____|┃ ( ___)│ サッ
|┃= (_》 ^ω^)E)
|┃ ≡⊂ ノ ハンターのエアブロウ(虚空拳)の所在って今どこだっけ
ベンジャミンかクラピカの注射器の中か 裏窓はオイトに譲渡してあるからまだクラピカが持ってるはずだよな
あれ出ないまま終わったらモヤモヤしすぎる クラピカが誰かに譲渡したらベンジャミンには行かない??
よくわからんな 映画の時代は1960年代まで
テレビの時代は70年代まで
80年代にトレンディーが流行してビデオが登場し終わる テレビドラマは映画に対するベンチャーであるから映画業界であぶれた人は
積極的にテレビドラマに参入していったが花形映画スターの多くはテレビに向かわなかった
テレビはチャンネル競争だからな
無個性からスタートして企画力と内容と分かりやすいキャラ性で勝負かけるしかない
伝統がどうこういっても始まらないのだ 伝統とトレンディの中道くらいをいって人気を博したのが
倉本聰、山田太一などの大御所脚本家
これらも80年代で終わる トレンディは軒並み欧米のパクリ
役者使いまわしてどんどん新しいアイデアを放り込んでいかないと通用しない
オタクアニメのように制約をはずした場所から始めることも出来ないから
マンネリがどんどん進む トレンディホームドラマ始まってからオワコン化したな 理性もクソもない習慣の国だから使いまわしてアイデア放り込む以外にないがな 理性的であることの何が良いのか理解できんからな俺などは しばらくシェークスピアを読むか
物語の内容はまるで面白くねえけど 野蛮で暴力的な表現多いけど当時のことを考えるとこんなものかなという気がする
フランスでは受けが悪かったらしい 言葉至上の演劇スタイルだからな
威圧感のある言葉が連続している感じがある
ドストエフスキーのような無駄なセリフは無い ドストエフスキーって情念の勢いで文字数増やしてページ数を稼ぐからな
そうでもしないと生活できなかったのだろうけど
そんなにセリフ長くしなくてええだろ、って何度も突っ込みいれたくなる 登場人物に陰影を刻み込むように言葉を使うのがシェークスピア
情念を発散するように怒涛の勢いで書き散らすのがドストエフスキー 古典的で一番シンプルな葛藤は善と悪だろ
スターウォーズもフォースの暗黒面は悪で光の側面は善なのである 人には無数の内面的葛藤が生まれるが太陽の光にあてられるとこれが霧散してしまう
だから陰影から読み取れよというのがシェークスピア ただの影と光ではなくシェークスピアは共感覚を総動員して刻み込む しかしこれらも俺にとってはただの錯覚
西洋の理性などただの錯覚
妄執、錯覚からの解脱をやるぞ 人は自然から独立して生きられるか?という問題があるが
この問題意識は単なるすり替えである アリストテレスの受動理性についてヘーゲルはあまり詳しく解説していなかったな 受動は受身ではなく能動から受けて働き出す能力のこと アリストテレスの世界観では受動的理性と能動的理性とは対の関係になっている
能動的理性→受動的理性→可能態から実現態へ
光と色の関係もまたこのメカニズムとして説明されていた 感覚と受け取る表象との関係を説明するのに昔の人はかなり骨折っている
イデア論なしで説明できるのかと
ヘーゲルでは概念を最初から絶対具体的なものに定義しているからな 理性しらないから真の実在について考えることもできん
だからイデア論も認めることができない カバラ数秘もイデア論的だがアインソフオウル(宇宙意思)に端を発しているためセーフ プラトンもピタゴラスの影響でどこかおかしいが
つまり数を通じれば理性的にイデアの世界を認識できるのではないかと考えたこと 数の背後に普遍のイデア界があるのかどうか誰にも分からない
数多くの数学者が挑んで敗北していった
リーマン予想もそれに近いものがある
素数の法則と自然の法則との関連性 16世紀当時のシェークスピア演劇は半分見世物小屋のような雰囲気だったらしい 国王から市の運営を任されていた枢密院の貴族を味方につけないと簡単に排斥される程度の規模だった 当時のロンドンは職業ギルドの集まりだからな
組合の教えの根幹にはキリスト教の倫理があった 運命を神に任せて敬虔に生きるのが善しとしている清教徒にとっては
さまざまな役者になりきるダイナミックな演劇は悪辣な放蕩行為にも見えたのだろう
それで革命と共に小劇場は排斥された ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています