1980年代〜1990年代 洋楽メタルを語ろう
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臭いメタラーがなんでこの板にいるんだよ
スレ削除依頼出してさっさと消えろよ馬鹿 イーグルフライフリーベースソロからやり直しとか嫌じゃね?どうせなら最初からやってほしい >>207
いや、仕事だったし
でもXは絶対に凄い事になるバンドだと思ったから自分で強引にブッキングした X JAPANは羨ましいねー。ただの古くさ80メタルおっさんスレじゃなかったのか >>209
いや、まだXの時代
YOSHIKI
TOSHI
HIDE
PATA
TAIJI >>200
懐かしいなあ
Steel PantherがShe's tightっていう曲のPVであの曲のオマージュ
(PVの内容がアレなのでリンクは貼りませんがユーチューブで視聴可能) シンデレラとかスキッドロウは興味無ぇわ
ダサいHR/HMの代表って感じだし 今では、絶対無理な事
このNHKホール30分でソールドアウトになった
https://i.imgur.com/No4Aawz.jpg このバンドの初来日公演体験してる人はかなり少ないと思う
新宿厚生年金会館1階18列目までしか入ってなかった
2階は閉鎖してた
https://i.imgur.com/W0TpuaB.jpg この頃のヴァン・ヘイレンが1番良い
最前列ど真ん中
コネ使いまくった
https://i.imgur.com/qbfwIaY.jpg ホント、この頃のヴァン・ヘイレンは一切の捨て曲無し >>216
Faster Pussycatは87年の1stは好きだったけど、
この頃はもう時代遅れ感があって来日しても興味無くなってた ハートの初来日は行ったなあ。
当時初来日だって知らなかったけど。 いけないチェリーパイには捨て曲が一切無しの大名盤
日本盤ボーナストラックのシンディスガイズも隠れた大名曲 ハートの初来日は79年だって
自分は88年に代々木で見てる >>232
1979年かぁ、
1988年のハートだとバブル真っ只中っすね >>233
85年に売れてその次も売れて正に絶頂の頃かもね >>234
サウンドトラック盤のおかげだねー
とにかく売れた >>235
80年代仕様にした85年のアルバムが大きかったかな
そこから次とその次くらいまではなんとか売れて時代が変わったような >>236
赤いヴェルヴェット地のalbumから急降下したよね
完全なネタ切れ
まぁ、ハートよりプロデューサーのロン・ネヴィソンの才能なんだよね 赤いヴェルヴェット地のalbumって何?
赤いのはクリスマス・アルバムだよね。これは当然だと思うし・・・
売上下がったのはDesire Walks On >>238
確か。BRIDGEの日本盤の装丁はそんなんじゃなかったっけ?
違うか BRIDGEだったか
ヴェルヴェット地かどうかは知らないけどハートはその前の2作だよね
納得した Brigadeね
80年代は楽しかったかけど宴は終わってきてたな >>241
あ、それです
もう80年代のパーティーは終わりを迎えてました
トップガンのサウンドトラック盤は売れに売れた
ベルリンも売れた つか1985年作のHeartが凄かっただけだなぁ
次作はシングルのアローンのみしか印象ない
今聴いたら耳が豊かになった分、また違った発見あるんだろうけどもさw
今、積みCDを片っ端から聴いてるけどHeartをもう一度聴く日がくるのかね〜^^
今、21パイロットの2枚目聴いてるwいいね、これw >>242
当時はベルリンはとても好印象だったけど、今聞いたらうるさい印象だった・・・
俺もすっかりジジイだなぁ・・・^^: >>245
そうかね。んじゃひっぱりだそうかな〜^^ ちなみにスキッド・ロウのファーストalbumは、もう恥ずかしくて聴けなくなった
ガンズ・アンド・ローゼズのアペタイトと同じで聴きすぎた >>249
聴き過ぎてってのはないかなぁ
そういうのはタイムレスになってるけど
その時しか聴いてないモノのほうが当時を思い出すかな >>249
アペタイトはIt’s So Easyはまだ聴ける
スキッドロウは歌詞が俺様だぜぇとか俺たちゃワイルドな若者だぜぇとかだもん
自分は当時高校生だったけど、当時から恥ずかしかったよ
でもガンズの初来日武道館もスキッドロウの初来日クラブチッタ川崎も行っちゃったけどさ
モトリークルーのGirls Girls Girlsの武道館はドラムセットが回転して楽しかった >>251
自分もスキッド・ロウが1番行った洋楽アーティスト
だから飽きてるのかも
初来日の時メイキンアメスやってるのに気付くのにサビまでかかったからw >>251
モトリーの武道館楽しかったね
Home Sweet Homeのイントロピアノで弾けるわw 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、
ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに
種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というもの
はさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』――あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演
を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。
そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、
「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、
「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人
があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に――あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが
――子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が
「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死という
ものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象
と見做してよいように思われる そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は
大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが
そのたびにクソアフィの自演とクソアフィの自演とクソアフィの自演とあからさまなクソアフィが出てきてうんざりするわ、クソアフィは生きる楽しみもしらないのか
自演は俺も何百回とやったことあるから言えるけどあれは全然つまらないよ、正直何が楽しいのかわからないまっとうな人間なら拒否反応しめすレベルのつまらなさだよあれは
そんなことをしちゃうあたり そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は
大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが
そのたびにクソアフィの自演とクソアフィの自演とクソアフィの自演とあからさまなクソアフィが出てきてうんざりするわ、クソアフィは生きる楽しみもしらないのか
自演は俺も何百回とやったことあるから言えるけどあれは全然つまらないよ、正直何が楽しいのかわからないまっとうな人間なら拒否反応しめすレベルのつまらなさだよあれは
そんなことをしちゃうあたり >>256
これも初来日クラブチッタ行ったよ
この曲も生で見た 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は
大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが >>261
今聴くならそれだよね
当時は期待を裏切られてがっかりしたがグランジになれた今なら聴ける 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 武士なる語も言うまでもなく古くから使用さるる語である。然しかるに武士道と三ツ並べた熟字は一般に
用いられなかった。僕は度々この文字の出所でどころを尋ねられたけれども、実は始めて用いた時分に
は何の先例にも拠よった訳ではなかった。然るに今日は武士道といえば誰一人この字の使用を疑うもの
はない。元来武士道は国民一般に普遍的の道徳ではなく、少数の士の守るべき道と知られた。しかし
武士の制度が廃せられて士族というのはただ戸籍上の称呼に止る今日には、かくの如き階級的道徳は
踏襲すべくもない。これからはモー一層広い階級否な階級的区別なき一般民衆の守るべき道こそ国の
道徳でなくてはなるまい。また国際聯盟なんか力説される世の中に、武に重きを置く道徳は通用が甚だ狭い。
また仮りに国際聯盟が出来ないにしても武に重きを置かんとするよりは、平和を理想としかつ平和を常態
とするが至当であろう。しかのみならず先に言う如く士は今日階級としてはない、昔の如く「花は桜木、
人は武士」と謳うたった時代は過ぎ去って、武士を理想あるいは標準とする道徳もこれまた時世後じせい
おくれであろう。それよりは民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに
到来した、故に武に対して平和、士に対して民と、人の考がモット広くかつ穏かになりつつあることを察すれば、
今後は武士道よりも平民道を主張するこそ時を得たものと思う。 当時はチケットがまだ高くなかったからバイト代で行きまくったね
今は高いしちゃんと選ばないと損するって思うと足が遠のく
フェスでいっぺんに見るようになっちゃうね >>272
だね、18000円とか行かないってか、バカらしい
18000円払うなら欲しい音源買う
たかだか二時間ちょいなのに 邦楽アーティストはもっと安かった
尾崎豊の東京ドームも行ったけどチケット代3000円だったからなw かく言いえば僕は時代とともに始終考えを変えて行くように聞えるであろうが、時代について用語が異なったり
また重きを置く所も異ことなるのは至当の事である。根本的の考えは更に変らない、恐らく昔の聖人といえども
時と場合によって説きようを自在に変えたであろう。人にんを見て法を説くとは即ちこの謂いいである。同じ文字
を使っても内容を変えれば一見貫徹している如く見えても意味が異る。その反対に用語を違えても思想に至って
は一貫していることもある。
今日とても士道なる文字をそのままに書いてなおその内容に従来の意味と異る思想を含めることは甚だ容易た
やすい。たとえば明治になって新に士籍とはいわれまいが、広い意味に於ける士の族に昇格したものが沢山ある。
学士を始はじめとして代議士もあれば弁護士もある。モット広く用ゆれば国士もあれば弁士もある、即ちこの新らしき
士族は昔のそれと違って武芸を営むものでない。然しかるにいわゆる平民なる一般国民に比してより高き教育を受けた
輩やからである、随って彼らは名誉ある位置を占め、社会の尊敬を受けるものであるから、誰人たれも士たらんこと
を望むであろう。さすればやはり「花は桜木、人は士さむらい」なりと歌っても、あな勝ち時代錯誤ではあるまい。
しかし今日のいわゆる士さむらいは昔の武士のように狭い階級ではない 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ ホイスト(2)は、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスを
つまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイスト
ほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりは
ただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手じょうずということになると、心と心とがたたかう
すべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたら
すすべてのつぼを、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技わざの完全な精通を意味するのである。
これらのつぼは多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに
隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れた
チェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイル(3)の法則だって(それがゲームの単なる
メカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」
どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣ひけつだと一般に考えられている点である。ところが、
分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの
観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、
ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに
種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というもの
はさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』――あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演
を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。
そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、
「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、
「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人
があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に――あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが
――子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が
「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死という
ものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象
と見做してよいように思われる SHM-CD
プラチナSHM-CD
Blu-spec
Blu-spec CD2
日本にしか無い なわけねーだろ
日本は米英独と比べればメタル後進国 発信力は弱いけど、
受け入れる器は日本が1番だったかもね
かつての西新宿メタルのレコード、CDの宝庫だったから >>283
マリズロックはメタルTシャツの宝庫だったな
毎年大晦日の年越しセールには行ってたよ >>282
西新宿エアーズみたいな店が世界中のどこにある?
あったなら場所と名前教えてよ? >>282
メタルバンドのアーティストはユニオンメタル館で喜んで買い物してるぞ >>289
まぁ、世界中探してもあんなメタル館なんて店は無いだろうね
だから、ユニオンは世界一の中古屋 来日したアーティストが西新宿で買い物しまくる時代もあった
今でも新宿レコードってあるのかな?
ディスクランドは無くなったのかな
他にもディスクロード、
池袋のブロンズエイジ
ブートやプロモ盤の宝庫 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 東洋人の發明と云ひますが、東洋と云ふ言葉が餘程曖昧な言葉であつて、内容がはつきりしませぬ。私が茲に申す東洋とは
、極めて狹い意味に解して、東亞若くは極東と云ふのと同じ意味で、主として支那人を指すことと御承知を願ひます。
東洋人の發明と云ふ中で、第一に注意すべきは印刷のことであります。支那の印刷術は何時出來たかと云ふと
、いろいろの議論がありまして、今日でも學説が一定して居る譯でもありませぬ。併しながら普通では隋の時分
に出來た、少くとも隋の開皇十三年(西暦五九三)に出來たことになつて居ります。無論之には異議を申立てる
學者もあります、私なども之に絶對的信用を置くことは躊躇いたすのでありますが、其次の唐の時代になると、
最早印刷術が發明されて居つたことは疑のない事實であつて、當時の記録にも明瞭にその事實が記載されて居るし
、又近年新疆や敦煌方面から出て來た佛典のうちに、確に唐時代の刊本と認定されるものもあります。我が日本の
稱徳天皇の御代(西暦七六四―七七〇)に作られた、例の百萬塔の中に納められた陀羅尼ダラニの印本も、時代
は丁度唐の中頃に當り、西暦八世紀の半頃のものであります。日本の稱徳天皇の御代の印刷は、
日本で發明したものか、唐から傳へたものかといふ事については、いろいろ議論がありますが、日本の印刷
の歴史のことを餘程調べて居つた、もとの英國の公使のサトウといふ人が、日本の印刷はどうしても支那から
傳へたものだと申したことがある樣に記憶しますが、私も同樣な考をもつて居ります。そは兎も角も。
この陀羅尼の印刷といふものが、今日世界に現存して居る印刷物の中で、最も古くて尤も年代の確な
ものであることは、爭ふべからざる事實であります キェルケゴオルはその誠実な人格的生活、真生活築造の情熱、及びプラグマチズム風の認識論
、特に主意的な人生観、著しい宗教的傾向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人主義、――など
において十分注意せられる価値がある。
私がキェルケゴオルを読み初めたのはきわめて偶然に菅原教造氏の勧めに従ったのであった
。そして最初はあまり引きつけられなかった。ところが昨年の六月の初めに、突然彼の内部へはいったような
心持ちを経験した。その後私はほとんど彼のみを読んだ。私は自分の問題と彼の問題とがきわめて近似していることを感じた
。ついには彼の内に自分の問題のみを見た。
その問題は概括すれば「いかに生くべきか」に関している。自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための
種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を
全然捨離し得ない苦悶。(金、地位、名声などに因する種々の心持ち。)愛の心と個性を重んずる心との争い。
(女、肉欲、愛、結婚生活、親子の関係、自分の仕事などについての種々の心持ち。)個性と愛とを大きくするため
の主我欲との苦闘。主我欲を征服し得ないために日々に起こる醜い煩い。主我欲の根強い力と、それに身を委せよう
とする衝動と。愛と憎しみと。自己をありのままに肯定する心と、要求の前に自己の欠陥を恥ずる心と。誠実と自欺と。
努力と無力と。生活を高めようとする心と、ほしいままに身を投げ出して楽欲ぎょうよくを求むる心と。―― カントは独り哲学界に不朽の功績を残したばかりではなく自然科学者としても重大な位置を占めるものである。その最初の
論文「活力の真の計算の考え」はデカルトとライプニツとの相反発すると考えられた二つの見方に就いて論じたもの
であるが、其は独自の思想という点に於けるよりも寧ろ厳密な鋭利な或いは煩瑣とも云うべき批判の傾向と能力とを示した
という点に於て価値があるであろう。之に反して「地球の回転は時の経つに従って其の速さを変えるか」に就いての
ベルリン・アカデミーに提出された懸賞論文はカントの独創的天才を示すものである。カントによれば月及び太陽の引力
によって引き起こされる潮の満干の運動が地球の回転の速さを緩める事が明らかとなる。たとえその計算があまり厳密で
はなかったにしても、又たとえ速さがこの外の更に多くの原因によって緩まるということをカントは注意しなかったにしても、
カントが簡単な疑うことの出来ぬ力学的関係の考察から出発したという点での此の論文の価値は依然として変るものではない
。さて自然科学者としてのカントをして最も有名ならしめるものは「一般自然及び天体論」に述べられた所謂
カント・ラプラス仮説である。凡ゆる遊星は略々同一平面の内に同一の方面を以て運動し太陽も又この平面に垂直な軸の回り
を同じ方向に回転するが、カントによればかかる偶然とも云うべき一致は太陽と遊星とが本来空間に拡っていた同一の物質であり
、後に至って始めて分離したものであるということを示すに外ならない。勿論カントが太陽系の成立を説明して引力と排力とが
密度の大きい多数の塊を造り同時に又全体に回転運動を与えるとしたのは誤りである。後者は力学上不可能でありラプラス
の如きは回転運動は始めから与えられたものと見た。併し此の点を除いてはたとえ今日に至るまで天体の発達史の確実な見方
が得られないためにこの仮説が如何なる範囲に於て正当であるかを決定することは出来ぬとしても、この仮説の核心
そのものの正しい事は疑うべくもない。風の理論其の他に関するカントの仕事を数え尽すことは茲では不可能であるであろう
。ただ最後に生物界に就いての研究を一言しなければならぬ カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識の内に与えら
れねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様
の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。
さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな
必然的表象であるという。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈と呼ぶ。
併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と
考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。
吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、
即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わすということでなければならぬ。
併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説
は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる
部分の間にその妥当の論理的な関連があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的な
アプリオリテートがあるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして
他種の明白さを持っているということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象の
アプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。
それ故ただ空間に関する一定の命題即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。
そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。 理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています