1980年代〜1990年代 洋楽メタルを語ろう
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>>766
多感な中学時代をリアルタイムで80年代通り抜けたメタル好きなオッサンの88%の、あるあるです メタル好きな40代真ん中〜後半は「shout」よりこの曲が好き
あるある
https://youtu.be/aGCdLKXNF3w >>768
つーか、びびった
まさか同じネタとはw
気が合いますな 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は
大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は
大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが 死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧は
じない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こう
いう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。
誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るる
とは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わ
いということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。
己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。
物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 ホイスト(2)は、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスを
つまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイスト
ほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりは
ただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手じょうずということになると、心と心とがたたかう
すべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたら
すすべてのつぼを、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技わざの完全な精通を意味するのである。
これらのつぼは多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに
隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れた
チェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイル(3)の法則だって(それがゲームの単なる
メカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」
どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣ひけつだと一般に考えられている点である。ところが、
分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの
観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、
ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに
種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というもの
はさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』――あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演
を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。
そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、
「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、
「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人
があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に――あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが
――子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が
「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死という
ものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象
と見做してよいように思われる 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う
何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか
そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者
つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ
一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの
そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね
昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ
ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん
いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから
バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい
だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ
クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ
悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな
どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ
アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス
の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは
実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。
故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし
て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ
の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と
親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。
プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。
その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか
と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、
これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる
ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、
その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている
。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 キェルケゴオルはその誠実な人格的生活、真生活築造の情熱、及びプラグマチズム風の認識論
、特に主意的な人生観、著しい宗教的傾向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人主義、――など
において十分注意せられる価値がある。
私がキェルケゴオルを読み初めたのはきわめて偶然に菅原教造氏の勧めに従ったのであった
。そして最初はあまり引きつけられなかった。ところが昨年の六月の初めに、突然彼の内部へはいったような
心持ちを経験した。その後私はほとんど彼のみを読んだ。私は自分の問題と彼の問題とがきわめて近似していることを感じた
。ついには彼の内に自分の問題のみを見た。
その問題は概括すれば「いかに生くべきか」に関している。自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための
種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を
全然捨離し得ない苦悶。(金、地位、名声などに因する種々の心持ち。)愛の心と個性を重んずる心との争い。
(女、肉欲、愛、結婚生活、親子の関係、自分の仕事などについての種々の心持ち。)個性と愛とを大きくするため
の主我欲との苦闘。主我欲を征服し得ないために日々に起こる醜い煩い。主我欲の根強い力と、それに身を委せよう
とする衝動と。愛と憎しみと。自己をありのままに肯定する心と、要求の前に自己の欠陥を恥ずる心と。誠実と自欺と。
努力と無力と。生活を高めようとする心と、ほしいままに身を投げ出して楽欲ぎょうよくを求むる心と。―― カントは独り哲学界に不朽の功績を残したばかりではなく自然科学者としても重大な位置を占めるものである。その最初の
論文「活力の真の計算の考え」はデカルトとライプニツとの相反発すると考えられた二つの見方に就いて論じたもの
であるが、其は独自の思想という点に於けるよりも寧ろ厳密な鋭利な或いは煩瑣とも云うべき批判の傾向と能力とを示した
という点に於て価値があるであろう。之に反して「地球の回転は時の経つに従って其の速さを変えるか」に就いての
ベルリン・アカデミーに提出された懸賞論文はカントの独創的天才を示すものである。カントによれば月及び太陽の引力
によって引き起こされる潮の満干の運動が地球の回転の速さを緩める事が明らかとなる。たとえその計算があまり厳密で
はなかったにしても、又たとえ速さがこの外の更に多くの原因によって緩まるということをカントは注意しなかったにしても、
カントが簡単な疑うことの出来ぬ力学的関係の考察から出発したという点での此の論文の価値は依然として変るものではない
。さて自然科学者としてのカントをして最も有名ならしめるものは「一般自然及び天体論」に述べられた所謂
カント・ラプラス仮説である。凡ゆる遊星は略々同一平面の内に同一の方面を以て運動し太陽も又この平面に垂直な軸の回り
を同じ方向に回転するが、カントによればかかる偶然とも云うべき一致は太陽と遊星とが本来空間に拡っていた同一の物質であり
、後に至って始めて分離したものであるということを示すに外ならない。勿論カントが太陽系の成立を説明して引力と排力とが
密度の大きい多数の塊を造り同時に又全体に回転運動を与えるとしたのは誤りである。後者は力学上不可能でありラプラス
の如きは回転運動は始めから与えられたものと見た。併し此の点を除いてはたとえ今日に至るまで天体の発達史の確実な見方
が得られないためにこの仮説が如何なる範囲に於て正当であるかを決定することは出来ぬとしても、この仮説の核心
そのものの正しい事は疑うべくもない。風の理論其の他に関するカントの仕事を数え尽すことは茲では不可能であるであろう
。ただ最後に生物界に就いての研究を一言しなければならぬ カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識の内に与えら
れねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様
の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。
さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな
必然的表象であるという。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈と呼ぶ。
併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と
考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。
吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、
即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わすということでなければならぬ。
併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説
は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる
部分の間にその妥当の論理的な関連があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的な
アプリオリテートがあるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして
他種の明白さを持っているということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象の
アプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。
それ故ただ空間に関する一定の命題即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。
そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。 理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの
考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも
のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の
感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。
「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上
の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。
ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も
含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を
厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう
。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し
得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。
実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは
「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が
あるということを否定することにはならぬであろう さらに私は、多数の不信者が神の存したまうこと、人間の精神が身体から区別せられることを信じようと欲しない原因は
まさに、この二つのことがらは従来何人によっても論証せられ得なかったと彼らが申しますところに存することを知って
おりますゆえに、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反対にこれらの問題に対して偉大なる人々によって
持ち出されましたほとんどすべての根拠は、十分に理解せられます場合には、論証の力を有すると考えておりますし、
従って私は前に他の何人かによって発見せられなかったような根拠はほとんど何も与え得ないと信じておりますとはいえ
、しかもひとたびそれらすべての根拠のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして厳密に明瞭に解明し、かくてすべて
の人々の前に今後これが論証であることを確かにいたしますならば、哲学においてこれにまさる有益なことは為し得ない
と思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの学問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成
いたしましたことを知っております或る者は―――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、
真理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して実の
り多かったことを見ているのであります。―――この仕事が私によって為されることを切に請い求めましたゆえにかように
して私はこれについて若干試みることが私の義務であると考えた次第であります。
さて私が為し遂げ得ましたほどのことはことごとくこの論文の中に含まれております。もっとも、かのことがらを証明すべき
ものとして持ち出され得るであろう種々の根拠のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、
何ら十分に確実な根拠を有しない場合にしか、労力に値しないと思われるからであります Disturbedネタで誰もボーカルの顎ピに触れないのは何故だろうか? そっかww俺はあんま詳しくないけどタイムリーかと思ったんだ・・・
険しいのうwメタル道ww このalbumで来日公演は実現しなかった
ありえない >>798
Disturbedって2000年デビューだから、そもそもスレチじゃね 「インぺリテリの最新作は凄いらしい!」
という劇団四季の昔の広告のパクりが似合うこの曲…
https://www.youtube.com/watch?v=oxaNxsk1YYg >>808
昔、stand in line出した来日
新宿日進パワーステーションで見た プロデュースや録音が最新になればなるほどメタルは全部同じ音にきこえる
自分が歳とってきてる証拠かな
全くピンとこなくなった 【注目銘柄】(株)スタートトゥデイ[3092] 株価情報(ZOZOTOWN,WEAR) 【優良企業】
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/stockb/1538724763/
前澤友作 「お客さまを神様だと思ったことは一度もないです」 身長 162.1cm
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20120424/231350/ph001.jpg
https://i.ytimg.com/vi/owUEcOcQuZ8/maxresdefault.jpg
WEGO/メタリカプリントキャミソール |METALLICA(メタリカ) - ZOZOTOWN
http://zozo.jp/shop/wego/goods-sale/21307041/?did=40731067
【日本語訳】 Metallica - Creeping Death - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2Lugb9XfRkA#t=4m20s
旧約聖書『出エジプト記』でモーゼが
奴隷として
使役されていた
ヘブライ人を救うため、
ヘブライ人を連れてエジプトを脱出しようとしますが、エジプトの王であるファラオが追っ手を出します。葦の海で水が割れてヘブライ人が通った後、ファラオの軍勢が通ると元に戻るシーンは有名ですね。この曲中ではエジプトを出ようとしたモーゼを助けるために
神が
疫病を
エジプトに送った
ところが描かれています。
【メタリカのドラマー、バスキアの絵を手放す。】ロイター(2008年10/10)
http://metallica.livedoor.biz/archives/51093314.html
バスキア
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1495169300/
19
虚構に値段をつけて、金を呼び込み、
胴元がもうけて、売り抜けたやつが設けて、
最後にババを引いたやつが、全額失う。
>>1 >>2 >>3
https://www.youtube.com/watch?v=2Lugb9XfRkA
↓
https://www.youtube.com/watch?v=2Lugb9XfRkA#t=4m20s
メタリカ「Napsterを叩き潰したことを誇りに思ってるよ」 今この曲を聴くとバリカッコイイし凄いことがわかる
歌詞なんて今の方が現実的に感じられるし
Living Colour - Cult Of Personality
https://www.youtube.com/watch?v=7xxgRUyzgs0 ジョージ・リンチはずっと後ろのマーシャルの方を向いてギター弾いてた
ミックブラウンのドラムが走る走る この頃、ジョージ・リンチとドン・ドッケンの仲は最悪
目も合わせないし一言も会話しなかった
互いを目の敵にしてた原因は
ザ・ドリフターズで例えたらドン・ドッケンがいかりや長介
ギャラの配分 仲は悪かったけど彼等は結局それを売りにしてたんだよな
全盛時ジョージリンチはそんなにドンが嫌なら辞めりゃいいのにって思ってた
何度か再結成したけど今はドンとミックだけ ドッケンって日本だとビッグなバンド扱いだったけど
アメリカでは確かトップ40にシングルが入ってなかったんじゃない? Burning Like a FlameとDream Warriorsはそこそこヒットしなかったっけ? そこそこな、そこそこ
バーニンライクアフレームは名曲 日本では
ラット>>>>ドッケンだった
ラットは二回連続来日公演は武道館 ラットは2度目の来日の今は亡き新宿厚生年金会館行ったなぁ
まだ中学生だった
観客みんなずっと腕振り上げてて肩が疲れたの覚えてる
あとボンジョビとやった東京ドームのカウントダウンも行った
好きなアルバムはDancing Undercover >>834
あらら、新宿厚生年金会館ってもうないんだ?
全くそっち方面行ってないからわからなかったよ
じゃ最後に行ったのは、オペレーションマインドクライムU出した時のガラッガラ16列目まで、2階は閉鎖のクイーンズライチだな >>834
bodytalkは名曲中の名曲
ルッキングフォーラブも最高 >>834
サンヨーヒートビートライブ カウントダウン89っすね
同じ場所にいました、 >>837
サンヨー…サンヨーという会社がもうこの世にないなあ( ;∀;) >>839
新宿厚生年金もロバートパーマーももうこの世には居ない... >>838
時代だよねぇ
自分は1990年代はサンヨーの大型ブラウン菅テレビだったよ
安くて長持ちしたw ボンジョビは87年のスリッペリー売れた時に連チャンでやった武道館のどれかで見てる
アルバム出す前後くらいの時は武道館まだ早いだろって感じが一年ですっかり状況が変わってた >>840
>>841
恋におぼれてが正に全米No. 1になった頃だったから本人ノリノリだったよ >>843
ツアー最初のガラッガラの武道館?
ツアー最後のパンパンの武道館? >>844
この人って、物凄い取り扱い注意な人らしいね、ペイジ並の糞上から目線&見下し目線 >>846
ちょー、うらやしいよ
自分は89年カウントダウンが発ボン・ジョヴィだった >>848
86年のほうはリビンオンアプレイヤーやらなかったらしいね
まだアルバム売れる前で曲の重要度がちがっんだろうね
アルバムは聞けば一発で今までとは違うパワーがあった 90年代に入って時代がガラッと変わったからか、
ボンジョビはニュージャージーとこのカウントダウンで終わった感がある
その後は全く興味が無くなった >>850
PVみたいに吊るされるようなやつでセンターまで行ってアコギ弾いた記憶
ちょっとうろ覚え >>851
ソロやったあたりまでは同じ雰囲気があったね
その後キープザフェイスの時はシーンが変わってた キープザフェイスは16ビートの中途半端なダンスビートでダッサイなぁって当時思った
リリース前にジーザスジョーンズのマイクエドワーズにリミックスを依頼したのに出来にビビっちゃってボツにしたんだよね
もうそれからボンジョビ終わったなって思った
U2やキュアーみたいに当時のアシッドハウスムーブメントを上手く利用も出来ずに。 >>854
グランジっつーよりミクスチャーロック的な物を作ろうとして失敗した感じ でもボンジョビがすごいなあ、と思うのは
グランジ台頭後もAlways、そしてIt's My Lifeとシングルヒットを出してるところ
なんだかんだ言っても売れてるんだよね >>855
そうそうダンスっぽいのやろうとしてた
U2とかの影響あったろうね
グランジ来ちゃって調子狂っちゃってた
ボンジョビ今でもトレンドっぽいの取り入れるし他のHR/HM系とは違うものがある >>857
残っていくアーティストはそれがあるなぁ >>856
あー、そうだね
ボン・ジョヴィがマーク・エドワーズにリミックス依頼するくらいだし >>861
アンスラックスは元々パンク的なスラッシュメタルバンドだったし別にこれは違和感無かったよ
パブリックエナミーのオリジナルよりこっちの方が好きだった
でもこういうのはボンジョビの連中には無理 いいんだよあんなバンドそれで
どうせまるでボンジョビなんだし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています