>>1の続き。


■逃げに逃げた李承晩

漢江大橋は爆破された一般橋(人道橋)と、それとは別に、少し離れたところに鉄道橋が掛かっていました。軍はこの鉄道橋の爆破に失敗しました。そのため、北朝鮮軍はこの鉄道橋を通って、戦車部隊を南に送り込むことができました。

一般橋の爆破で、多くの市民が渡河できず、犠牲になりましたが、鉄道橋が破壊されなかったため、結局、北朝鮮軍を足止めすることはできませんでした。とんでもない失態です。当時の韓国軍の管理体制が、いかにずさんなものであったかがよくわかります。政府は爆破の失敗を現場の実行者のせいにして、彼らを処刑します。

李承晩大統領は大田(テジョン 韓国中部の都市)に逃げ、そこまで北朝鮮軍が迫るとさらに大田を捨て、大邱(テグ 韓国南部の都市)に逃げます。さらに、大邱にも北朝鮮軍が迫ると、釜山に逃げました。李承晩は7月2日に釜山に到着しています。

韓国軍は漢江大橋爆破以後、士気を大きく低下させて、指揮系統を失い、北朝鮮の進撃にまともに抗戦することもできませんでした。

しかし、ようやく開戦から1週間たった7月2日以降、アメリカ軍が本格的に部隊を送り込みます。李承晩ら政府の首脳部が当てにしていたアメリカの軍事介入はアメリカ本国との連絡調整、準備などに手間取り、遅れていました。アメリカのトルーマン大統領は朝鮮半島への介入に、慎重かつ消極的でした。この間、釜山が陥落していたとしても不思議ではない状態でした。

アメリカ帰りの李承晩は口を開けば、「アメリカ、アメリカ」でした。その彼のメンツも大いにつぶれたのです。過度な同盟依存はろくな結果とならない。歴史が教える教訓です。

>>おわり。