http://i.huffpost.com/gen/5443834/images/n-MORISAN-large570.jpg

”本当”に良いレストランを探すのは難しい。店の雰囲気、料理の焼き加減、店員の接客。ためしに食べログを見たとする。星が2つで、辛辣なコメントが並んでいる。権威ある評論家もあまり褒めていない。

そんなときでも、好きな人とお店に行けばぜんぶがおいしく感じて、周りの風景も光り輝いてみえるときがある。「それ、間違っているよ。おいしくないよ」と友だちに指摘されると、意地でも、なおさら信じたくなる。

原発や憲法改正への賛否、韓国や中国など隣国への嫌悪、様々なウラ話。私たちは、恋愛や信仰のようにネットの「情報」に寄りかかり過ぎるときがある。

だが、「情報」にはウソもある。人を傷つけたり、争いを起こしたり、選挙に影響を与えたりする。

フェイクニュースやデマがあるネットの世界。映画監督で作家の森達也さんに「情報」との距離の取り方を聞いてみた。

http://i.huffpost.com/gen/5429650/thumbs/o-TATSUYA-MORI-570.jpg

--フェイクニュースが、特定の人種や宗教を攻撃するヘイトスピーチにつながることは、問題だと思います。ネットには、韓国や中国、沖縄に関する差別的な情報もあります。リベラルメディアの「鼻につく優等生っぽさ」への反発もあるのかもしれません。

僕ね、もったいないと思いますよ。世界が単純化されてしまって。例えば、職場の上司を「気に食わないな」と思っていたけど、帰り道にばったり会って、「ちょっとビール1杯行こうか」って言われて、時間を過ごしたら意外とチャーミングだなって思うことは誰にでもあるでしょう。

多面的なんですよ、世界は。人は。ネットで文句言っている人も、韓国や中国の人と会ったら結構仲良くなれるはずです。

フェイクニュース対策として、先ほどソースの確認の話をしました。それがいちばん有効です。でも同時に、それは実のところ、とても難しい面もある、と僕は思っています。

--どういう意味ですか?

普通に生活している人ならば、ニュース一つ一つのソースをチェックしたり、他の媒体の伝え方と比較検証するような時間もお金もないですよね。じゃあどうすればいいか。

世界の見方を変えるだけで良いんです。情報は必ず誰かの視点が入っている。誰か記者が書いてる。カメラマンが切り取って撮っている。記事や映像はすべて、事実ではなくて一部の断面であり、その断面は誰かの解釈です。

これをまず意識に置いた上で、多面的で多重的で多層的、どこから見るかで変わるんだっていう意識を持つだけで「情報への距離感」が変わると思う。伝える側も同様です。

これはたったひとつの真実ではなく自分の視点なのだとの意識を常に持つこと。つまり後ろめたさです。これがなくなったとき、メディアは正義になります。最もダメな状況です。

「この領土は俺たちのもんだ」「いや、これは俺たちだ」って、日本や周辺諸国の一部の人たちがもめていますが、物事はどこから見るかで全然変わる。人が100人いれば真実は100通りある。

確かに事実はひとつです。でもここに「ボールペンが2本ある」などよほど単純なケースを別にすれば、人にはすべてを把握することなどできない。それは神の視点です。尖閣諸島の帰属のラインはどのように引けばよいのか。

いちばん古い取り決めを探すのか。でもそのあとにその取り決めが変わっているかもしれない。そのときに両者は納得したのか。無理矢理ではなかったのか。無理矢理でも合理性があるのか。対価はどうしたのか。当時の国の力関係は?

特に領土問題などにおいては歴史が絡むから、変数は無限にあります。線など簡単には引けない。平行線は当たり前。コップは横から見れば長方形だけど上から見れば円です。どちらが正しいのかと言い合っても意味はない。

線の痕跡を躍起になって探して攻撃し合うのではなく、現在の視点で合理的に、争いのないように調停できるラインはどこにあるのかとの議論をすべきです。

投稿日: 2017年08月01日 07時47分 JST 更新: 2017年08月01日 13時21分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/19/mrmori-interview_n_17522984.html