1916年(大正5年)以降から少年及び婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される[30]。
1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された[31]。
朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという[31]。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の中国人労働者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、
長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した[32][33]。

戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[34](端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2062トンを出炭した。
この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年〜1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、
この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる[35]。
死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。