>>1の続き)

長谷山館長は「三井が芦別炭鉱の慰安所に関する記録を持っていたが、なくしたのではないかと思う」と話した。三井は地域の炭鉱会社である芦別炭鉱から1944年に炭鉱を買収し、土地と施設をすべて引き継いだ。三井の許可なしに慰安所を運営することは不可能だったと見られる。

あさか商店のアサカ・シズエ氏も、慰安所の前の建物に三井芦別炭鉱労務管理係の職員が住んでいたと証言した。職員が住んでいた所は慰安所のあった建物から100メートル程度しか離れていなかった。三井芦別炭鉱の労務管理係が慰安所の運営に関与した可能性が高い。

朝鮮人寮は今は人の背を越える雑草が生い茂ったところに変わっていた。今、住民のための共同浴湯がでいた町角には当時は派出所があった。警察が朝鮮人労働者がどこに行くかを監視していた。

芦別炭鉱には1944年6月、朝鮮人1905人と中国人760人、連合軍捕虜609人がいた。朝鮮人労働者は金が稼げるという誘惑に乗って日本に来た人と、1939年「国民徴用令」以後に強制徴用された人々だった。労働は苛酷だった。朝鮮人51人が事故と病気で亡くなった。

2012年、日本と韓国の市民団体は河川敷に朝鮮人労働者を埋めた話を聞いたという元炭鉱職員の証言に基づいて発掘調査をしたことがあるが、遺骨は発見できなかった。調査チームは川が氾濫した時に遺骨が流失したものと推定した。

芦別慰安所の朝鮮女性たちがどんな経路で北海道まで来て、慰安所が閉鎖された後にどこへ行ったのかは分かっていない。チマチョゴリを着て身振り手振りで服の修繕を頼みに来たという点から推測して、朝鮮出身で日本語はほとんどできなかった女性たちと推定できる。

遠い北海道の炭鉱で苛酷な労働をした朝鮮人、日本当局が彼らの労働を効率的に絞り取るために動員した朝鮮女性たちは、日本植民統治の最も末端にいる被害者だった。彼らの悲劇は、記録も殆ど残っておらず、ただ薄い痕跡としてこちらに残っている。

芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員

(おわり)

http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2017/0814/150272108296_20170814.jpg
11日、北海道の芦別市に産業慰安所の建物跡が残っている。ポストの後に見える建物が慰安所として使われた建物で、今は民家として使われている=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2017/0814/150272115290_20170814.jpg
11日、北海道芦別市、今は閉鎖された橋が見える。朝鮮人労働者はこの橋を利用して慰安所に行ったとみられる=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社
http://img.hani.co.kr/imgdb/japan/news/resize/2017/0814/150272121914_20170814.jpg
11日、北海道芦別市に太平洋戦争後に石炭輸送のために作った橋が見える。橋の下の河川敷で朝鮮人労働者の遺骨発掘作業が2005年に行われた=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社