□4歳の妹が途上で病死 下仁田の佐藤和江さん(81)

 15日、日本は終戦から72年を迎える。長い戦いの終幕は苦しい新生活の始まりで当時、満州国(現・中国東北部)にいた推定155万人の民間邦人は生活が一変、全財産をなくし、追われるように日本を目指した。

 満州の首都・新京(現・長春市)で生まれ昭和21年秋、家族と引き揚げてきた下仁田町の佐藤和江さん(81)が73回目の夏を前に、あまり公にしてこなかった体験を語った。 

◇押し寄せる朝鮮人

 昭和20年8月15日、9歳だった佐藤さんは、満州と朝鮮国境の町、大栗子(だいりっし)で玉音放送を聞いた。

 「日本が負けるなんて」

 2週間ほど前、新京から逃れてきた日本人たちは全員が涙した。だが放送が終わった途端に状況は一変。棍棒(こんぼう)やナタを手にした朝鮮人が押し寄せ時計や指輪、財布から屋根裏に隠していた荷物をさらっていった。

 朝鮮人だけでなく、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍、中国人などに若い女性や所持品を狙われる逃避行が始まった。

 日本人一行が身を寄せた大栗子の施設には満州国皇帝、溥儀もいた。佐藤さんの父が宮内府職員(馬事技官)だったため情報入手も早く、敗戦前に皇帝一族や宮内府職員らと新京を離れたのだった。新京駅で南満州鉄道自慢の特急列車「あじあ号」に乗り込むときの光景を、佐藤さんは鮮明に覚えている。

 「8月上旬、父から『夕方に新京をたつ』と連絡があり大急ぎで荷物をまとめ新京駅へ行くと、大勢の人でごった返していて『乗せてくれ』と頼んでいた。動き出す車窓から残された日本人を見て、子供ながらに心が痛んだ。あの人たちはどうなったのかなって」

 佐藤さんが長年、満州での体験について口を閉ざしてきたのも、このときの後ろめたさからだった。

◇女をさらうソ連兵

 あじあ号で大栗子まで来たものの線路が破壊されて先に進めず、終戦を迎えた。あとは歩くしかない。同胞と関東軍司令部のあった通化を目指した。6人だった佐藤さん一家は父がリュックの上に当時4歳の弟を背負い、母が3歳の妹を背負って7歳の弟の手を引いた。佐藤さんはリュックを背に、父の手を握った。

 途中、満州国の紋章をつけた朱塗りの車や馬車の装飾品を戦利品のように積んで通り過ぎるソ連軍に遭遇した。宮内府職員は泣きながら見送った。長い行程、重さに耐えかね荷を捨てる人も相次いだが、周囲には常に現地人が取り巻き、全部持ち去っていった。

 日本人のいた宿舎に落ち着いた際は連日、ソ連兵が空砲を鳴らして女性をさらいに来た。若い女性は男装のうえ地下に隠れ、大柄だった佐藤さんの顔を母は真っ黒に汚した。徒歩や無蓋列車で動く道中、亡くなった3歳の男児を離さない母親がいた。死臭が漂い説得して埋葬したが、母親は狂ったように泣き続けた。

◇通化事件で父も拘束

 ようやく通化に着くと、蒋介石の国民党軍と共産党の八路軍との市街戦が起きていて、室内にいても飛び交う銃弾の「ヒュン」という音が聞こえた。身を縮めて過ごしていた21年2月、通化事件が発生し、父が八路軍に連れ去られた。

 通化を占領した中国共産党の横暴に対する日本人の蜂起、そして鎮圧、その後拘束された日本人らへの虐殺事件。16歳以上の男性は拘束され、佐藤さんの父は民家にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、騒ぐ者は容赦なく銃弾を浴びた。

 父は3日後に解放されたが、防空壕(ぼうくうごう)に収容された人々は窒息死した。遺体の服は中国人に持ち去られ、カチカチの遺体は川に山積にされた。犠牲者の総数は2千人とも3千人ともいわれる。

 そんな中、妹が病死する。突然、発熱し父が必死に探した日本の薬を飲ませたが、1時間後に息をひきとった。21年5月24日午後9時、まだ4歳だった。

 「小学2年の弟と一緒に土葬しに行き、日本に引き揚げるときに遺体を掘り返し、燃やして残った遺骨を持って帰ってきました。遺骨は本当に小さかった」

http://www.sankei.com/region/news/170815/rgn1708150010-n1.html

>>2以降に続く)