「同胞たる国民諸君よ。我が国の長き悪夢は終わった。我が国の憲法は機能している。我々の偉大な共和国は法治国家であり、私益のための国家ではない。国民が国家を支配するのである。だが、『徳のみならず愛を。正義のみならず慈悲を』と命じる至高の力が存在する。我々がその力を如何なる名で崇めるにしても」。

1974年のジェラルド・フォード元米国大統領の就任演説だが、今日の韓国社会に向けた演説としてもまっすぐに心に届いてくる。

現在の韓国と同じように、当時ウォーターゲート事件で分裂した米国社会を一つにまとめるためのメッセージだったからだ。ユダヤ人が外部侵略と内部分裂を克服する求心点だった聖書のように、米国社会の和合のための「経典」はまさしく連邦憲法だった。

我々韓国を一つにまとめるものは何だろうか。不幸にも憲法とは違うようだ。大統領から裏切り者の烙印を押された政府与党院内代表が第1条第1項「大韓民国は民主共和国だ」を叫んで党から追い出されたことによって、逆説的に大韓民国が民主共和国ではなかったことを証明したその憲法のことだ。

これは憲法の間違いではないはずだが、正しくない人々が時代精神を実現できないとケチをつける残念な憲法だからだ。

憲法ができないことを太極旗が代わって実現することがある。我々の悲しい歴史と誇らしい記憶をひとつに凝縮した太極旗だからこそ可能なことだ。亡国の恨(ハン)を救国の叫び声に増幅したのが太極旗だった。歴史上、最も大きかった国家的自負心に声帯が破れるほど「大〜韓民国!」を叫んだ時にも太極旗と一緒だった。

だが、残念なことに大統領弾劾事態を体験しながらその色が褪せた。国家と国民ではなく、国家と国民を凌辱した輩をかばった太極旗はきっと本来の姿ではなかった。これもまた太極旗の間違いではなかったにもかかわらず、愚かな人間たちのせいで太極旗だけが忌避対象になってしまった。

このような認識の変化に最も敏感なのはやはり商業資本だ。ことし「光復節(解放記念日)愛国マーケティングが影を潜めた」という記事(中央日報14日付)は特に驚くようなことではなく、余計に悲しくさせた。

「ことしは太極旗を掲揚したくない」というフェイスブックの友達のコメントのごとく、住宅街から消えた太極も折しも降ってきた土砂降りの雨のせいだけではないはずだ。不幸は適度な瞬間に終わらない。癒せない後遺症をついには残してしまう。より大きな分裂のことだ。

「国ポン」(国家とヒロポンをかけ合わせた言葉で、盲目的な愛国的言動を行う人、こと)という、実に品のない新造語が登場したのがその地点だ。「ショービニズム(狂信的愛国主義)を赤裸々に表現したこの単語は、その語感のように常に極端な方向に向かう習性を持つため危険だ。

善良な意図の国家主義を一瞬にして邪悪な国粋主義に変えてしまう。ここで最も敏感なのが文化系だ。愛国心が消えた場所に、俗に腐敗や権力乱用のような国家の恥部が正義という名前で注目を集める。何が正しくて何が間違っているかではなく、片方だけに傾くのが危険なのだ。

ハーバード・ロー・スクールの教授であるキャス・サンスティーンの指摘がそれだ。「考えの似た者同士が集まると、彼らは議論を始める前に自分たち考えを極端な方向に追い込んでいく傾向がある」。インターネットやモバイルはそのような傾向のエンジン役を果たす。

ニューヨーク警察の報告書はこう指摘する。「インターネットは意志が弱かろうが強かろうが(…)急進化過程をそそのかす動因だ」。

フォードの呼び掛けの効果はそう長くは続かなかった。今日、米国は南北戦争以来、最悪の分裂状況と言っても過言ではない。我々韓国もまた同じだ。北核という現実的な危険の前に、むしろこれを巡って分裂している。このためさらに危険だ。今、政府が重要なこともまたそうだからだ。

過去の政府の偏狭性を克服して分裂の隙間を埋めることを至上課題とするべきだ。過去の政府の前轍を踏まないよう願う。雨の降りしきる光復節、旗がついていない旗竿を眺めて綴る断想だ。

イ・フンボン/論説委員

http://japanese.joins.com/article/373/232373.html
http://japanese.joins.com/article/374/232374.html