◆有田焼誕生401年 都内NPOメンバーら活動

◇「歴史知る 和解・共生への一歩」

白磁の美しさや鮮やかな絵付けで知られる有田焼が生まれて今年で401年。初の国産磁器を生み、育てたのは、戦乱の時代に日本へ連れてこられた朝鮮の陶工たちだった。都内のNPOのメンバーらが、陶工たちの足取りをたどる活動を続けている。

6月下旬、新宿区大久保1丁目の高麗博物館。チマ・チョゴリの女性が哀愁を帯びた声を響かせた。捕らわれの身となった女性が恋する人を思う気持ちを表現した伝統芸能に、約70人が聴き入った。有田焼の産地で、200年以上前に禁じられた行事の再現を試みる催しだった。

同館によると、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」(1592〜98年)で朝鮮から日本に連れてこられた陶工たちは、慣れぬ異国で苦労を重ねた。

一部は現在の佐賀県有田町の山あいに窯を築いて定着。近くの山に登り、宴を開いて歌ったり踊ったりして故国をしのんだ。代々続いたその「山のぼり」の行事は1807年、佐賀藩に禁止されたという。

連行された数万ともいわれる朝鮮の人たちのうち、陶工はどう異郷で過ごしたのか。同館の有志12人が陶工たちの足跡をたどり始めたのは4年前。九州や韓国・慶尚南道を調査した。日本で初めて白磁器を焼き、陶祖とされる李参平ら朝鮮陶工の末裔(まつえい)も訪ねた。

佐賀県武雄市の山深い窯の跡地には、無数の陶器の破片が小山のように積み重なっていた。同県伊万里市には約880基の陶工たちの墓標をピラミッドのように寄せ集めた無縁塔があった。碑には「高麗人」の文字も刻まれていた。

有志の一人の同館理事、李素玲(イソリョン)さん(80)は、「胸が締め付けられる思いがした」。韓国・済州島に生まれ、12歳で来日。その後は日本で暮らし、大学や大学院で東洋史を学び、大学講師を務めた。

「ふるさとを自分の意思とは違う形で離れ、異郷で生きざるを得ないときどう生きるべきか。絶えず同化の問題を突きつけられる在日や、シリア難民にも通じる問題が有田焼から見えてくる」

高麗博物館は1990年に在日の書画家・申英愛(シンヨンエ)さんが朝日新聞の「論壇」で「連行慰霊塔と朝鮮美術館建設を」と呼びかけたことを機に、2001年に開館。日本と朝鮮半島の歴史や文化を学ぶ拠点だ。

理事長の原田京子さん(75)は15年前、養護学校の教員を辞め、韓国・忠清北道の障害児施設にボランティアとして赴いた。そこで、文禄・慶長の役が「壬辰(イムジン)・丁酉倭乱(チョンユウェラン)」と呼ばれ、被害の大きさが語り継がれていると知った。

「有田焼の華やかさの陰にあった朝鮮人陶工たちの苦難を、どれほどの人が知っているか。歴史や事実を知ることが、真の和解や共生への第一歩だと思う」と話す。

同館では調査の成果を27日まで展示している。入館料400円(中高生200円)。正午〜午後5時で、月、火曜休館。

(高波淳)

http://www.asahi.com/articles/CMTW1708171300004.html

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170817000990_comm.jpg
陶工たちが故国をしのんだ「山のぼり」の行事の再現を試みた催しで、伝統芸能が披露された=6月24日、新宿区の高麗博物館、高波淳撮影
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約880基の墓標を集めた「陶工無縁塔」を訪ねたメンバーら=昨年5月、佐賀県伊万里市、高麗博物館提供
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有田焼について話す李素玲さん(右)=7月8日、新宿区の高麗博物館、高波淳撮影