いまほぼ米大陸全土に届く北朝鮮のICBM(大陸間弾道ミサイル)の配備が来年にもされると報じられ、米国の日韓など北東アジア同盟国に対し、これまで保障してきた拡大核抑止の信頼性について、今年8月の日米外務防衛担当閣僚会議でも、米国による核抑止力を含む対日防衛義務の履行について再確認された。

逆にこのことは、改めて再確認しなければならないほど拡大抑止の信頼性がいま問われることを示唆している。

なぜ、このような事態に至るまで、日米韓などの関係国や国際社会は、北朝鮮の核兵器とミサイルの開発を阻止できなかったのであろうか。その原因を探るには、歴史の教訓に学ばねばならない。

北朝鮮の核とミサイルの開発の歴史

北朝鮮の核とミサイル開発の歴史は、建国当時にまで遡るものであるが、特に核開発が表面化し、国際社会の注目を集めるようになったのは、1980年代の末頃からである。

その後、1994年のKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構=Korean Peninsula Energy Development Organization)の枠組み合意により、危機は一時回避されたかに見えた。

しかしその裏で、北朝鮮はパキスタンからウラン濃縮技術を導入し、プルトニウムに替わる核分裂物質入手の道を確保しつつあった。

さらに北朝鮮は、イランとパキスタンにノドン、スカッドなどを輸出し、外貨を稼ぎあるいはイランから石油を輸入するなど、経済的利益を得ながら、ミサイルの共同開発を促進した。

他方、イランとパキスタンは「ノドン」を原型とする一連の弾道ミサイルの開発と発射に成功している。さらに北朝鮮と両国は、核兵器開発でも協力関係を深めた。

北朝鮮は、パキスタンからアブドゥル・カディール・カーンのネットワークを通じて核技術あるいは遠心分離機などの核兵器生産関連の資器材等を導入し、イランとは核実験に立ち会わせ核実験のデータ交換なども行ったとみられる。

このように、国際社会が、北朝鮮の他の核保有を目指す友好国との協力関係の可能性を過小評価し、核拡散を見逃していたことは、結果的に北朝鮮の核保有を事実上許すことになった。その意味で、国際社会の核不拡散努力に抜かりがあったと言える。

国際社会はなぜ北朝鮮を止められなかったのか?

1980年代末に北朝鮮の核開発が国際社会に発覚して以降の、特に米国との交渉経緯をみると、北朝鮮が破局の寸前まで何度もチキン・ゲームを米側に強いながら、緊張の極点で融和策を打ち出し、

結果的に米国、韓国側から、朝鮮半島の非核化、米国による武力攻撃と武力による威嚇の放棄など、一方的な譲歩を引き出すことに成功している。

このような瀬戸際外交の成功を許したことも、米韓側の外交に主動性と一貫性が欠けていた結果と思われる。

特に制裁について、何度もIAEA(国際原子力機関=International Atomic Energy Agency)の査察受け入れをめぐり北朝鮮側と対立しながら、決定的な証拠を確認できず、結果的に北朝鮮側の時間稼ぎを許したことも失敗であった。

このような事態を避けるには、IAEAなどの国際査察機関の権限と能力を強化する必要があることは明らかである。

また中国の対応が必ずしも一貫せず、北朝鮮に対する決定的な制裁を行わず体制の温存を優先したことが、国際的な制裁の効力を無効化し、北朝鮮の核とミサイル開発を中止させられなかったことの一因となった。

ただし、中国としては、米韓に対する緩衝国としての北朝鮮を維持することは必要不可欠であり、食料やエネルギーを完全に禁輸し北朝鮮を崩壊させることもできないとも言える。そのため、北朝鮮に対する経済制裁には限界が伴うことは避けられない。

もっとも本質的な問題は、米国が北朝鮮に対する軍事制裁を検討した際に、50万人の兵力を増派し、数万人から数十万人の犠牲者を覚悟しなければならないとの見積もりが出たことである。

このような大規模な損害を、米国が朝鮮半島の非核化を強要するために払うことに対する信憑性は、低いとみられる。その結果、拡大抑止力は核使用を伴わない場合でも、高くはならなかった。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50782

>>2以降に続く)