>>1の続き)

あまりにもさらりと言ってのけているので、こちらもついさらりと聞き流してしまいそうになるが、この短い質疑応答の中で、小池都知事は、実に空恐ろしい言葉を連ねている。

「民族差別という観点というよりは……そういう災害で亡くなられた……様々な被害によって亡くなられた方々」

というこの言い方は、知事が朝鮮人虐殺について、民族差別とは無縁な偶発的な出来事である旨の認識を抱いていることを物語っている。

「民族差別というよりは」

というよりは、何だ? 

民族差別でないのだとすると、あの集団殺戮は、いったいいかなる心情がドライブした動作だったというのだろうか。

同じ町で暮らしている隣人を、同じ町の住人が多数の暴力によって殺害することが、差別以外のどういう言葉で説明できるのだろうか。

6000人以上と言われている虐殺の犠牲者は、民族差別による殺人の犠牲者ではなくて、一般の災害関連死と同じ「様々な被害」として一緒くたにまとめあげることのできる死者だというのか?

たしかに、震災による死は一様ではない。

建物の下敷きになって圧死した者もあれば、地震の直後に起こった火事で焼死した人々もたくさんいる。迫りくる火炎から逃れるべく川に飛び込んで溺死した犠牲者も大変な数にのぼると言われている。

あるいは、小池都知事は、そういう様々な犠牲者が10万人以上も発生した大災害の中で、朝鮮人の死者だけを特別に追悼することが、公平の原則に反すると考えているのかもしれない。

しかし、民衆による虐殺による死者は、不可抗力の災害による死とは別の枠組みで考えないといけないはずだ。

圧死であれ焼死であれ溺死であれ、災害の直接的な影響で亡くなった死者は、災害の犠牲者として分類することができる。災害を生き延びた人間が、同じく災害を生き延びた人間の手で殺された場合、その死は、災害死ではない。

人間によって殺された死者は明らかな殺人の犠牲者だ。そうカウントしないとスジが通らない。

25日の会見の動画をひととおり視聴して私が強い印象を受けたのは、小池都知事が、最後まで、「虐殺する」「虐殺される」「殺す」「殺される」という普通なら虐殺の犠牲者に対して使われるはずの動詞を一度も発音しなかったことだった。

知事は、虐殺の犠牲者にも、そのほかの震災関連の犠牲者にも、同じように「亡くなられた」という動詞のみを使っている。

この「亡くなる」という言い方(語尾が「亡くなられる」となっているが)という動詞は、自動詞で英語に直せば"died"に当たる。

知事の会見をそのまま英語に翻訳すると、かなり奇妙な英文になるはずだ。

辞書(『研究者大英和辞典』)を引いていて、興味深い囲み記事を発見したので、そのまま引用する。

《英語は「何が何をどうした」という行為者と被行為者の関係を明確にいう言語である》

という一行は、実に味わい深い。

災害関連死による死者と、虐殺による犠牲者を、おなじ「亡くなられた」という動詞で一括りに表現する小池都知事の言葉は、行為者と被行為者の関係を曖昧にした状態で語ることのできる言語である日本語だからこそかろうじて意味をなしているが、この会見が英語でやりとりされているのだとしたら、知事の回答は成立しなかったはずだ。

具体的には、震災の犠牲者には、”murder”ないしは ”slaughter”という単語を使わなければならない。

つまり、英語では「行為者」の「行為」を消すことができないということだ。

同じ会見の中で、小池都知事は、

《追悼文送付の中止で、震災時に朝鮮人が殺害された事実が否定されることになるとの批判がある》

という記者の指摘に対して

《様々な歴史的な認識があろうかと思うが、関東大震災という非常に大きな災害、それに続く様々な事情で亡くなられた方々に対しての慰霊をする気持ちは変わらない》

と回答している。
(続く)