被爆者の一人として、著述や講演活動などで核兵器廃絶を訴え続けた「長崎の知性」が静かに逝った。2日に92歳で亡くなった長崎大学元学長の土山秀夫さん。常に各種文献を精読し、海外の研究者とも意見交換を欠かさなかった。「感性に訴えるだけでなく、相手を納得させる論理がなければ、核廃絶には到達できない」。そう語っていた。

原爆投下時は20歳、長崎医科大付属医学専門部(医専)の3年生だった。原爆投下の2日前、母の疎開先の佐賀から「ハハキトク」の電報が届き、投下約4時間前の列車で長崎を離れた。「今、命があるのは母のおかげです」と話していた。

投下翌日に長崎に戻り、医学生として救護活動にあたったが、医薬品は底を突き、死に向かう人の脈を取りながら励ますことしかできなかった。「約10日間、僕はその地獄のような廃虚の中で行動した」。けがもないのに放射線被ばくによる急性症状で亡くなっていく人々。怒りと無力感に包まれながら、病状を見つめた。その体験が核廃絶に向けた活動の原点となった。

戦後、長崎大の教授となり、医学部長や学長などの要職を務め、学長退任後は核廃絶を目指す運動に積極的に取り組んだ。「1人の市民として活動する」「批判より提言を」がポリシーで、米露中が関与し韓国と北朝鮮、日本を非核化する「北東アジア非核兵器地帯構想」や「核兵器禁止条約」の具体化を訴えた。

また、核廃絶への議論を深め、国内外に向けて発表する場を作ろうと、古巣の長崎大への「核兵器廃絶研究センター」の設置(2012年)にも尽力した。国内の大学で核兵器廃絶に特化した研究所は初めてで、土山さんも顧問に就任した。

「治安維持法」が公布された1925年に生まれ、言論が封殺され、戦争へと突き進んでいく時代に育った。それだけに戦後の平和憲法への思い入れは強かった。

「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」。13年の平和祈念式典での平和宣言で、田上(たのうえ)富久・長崎市長は憲法前文を引用したが、提案したのは、宣言の起草委員を務めていた土山さんだった。

最近は、自らのように戦争を知る世代が少なくなる中で、憲法9条の解釈が変更され、特定秘密保護法や「共謀罪」法が次々と制定されていくことに焦りを募らせていた。今年2月、「戦争を過去のこととして忘却している、あるいは忘却しようとする人が少なくない。生きているかぎり、忘却を防ぐために力を注ぎたい」と語っていた。【大場伸也】

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土山秀夫元長崎大学長=津村豊和撮影