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「そこにあってくれてありがとうって。碑には歴史が刻まれ、そこに集う日本の方は私たちのことを知り、心を寄せてくれているのだから」

日常で味わい続ける実存感のなさがある。朝鮮学校、韓国学校に通い、日本の大学へ進んだ。

「私、在日コリアンの3世なんだ」と自己紹介すると大抵は「へえー」でおしまい。「一から説明することに次第に疲れていった」。あるときは「なんでわざわざそんなこと言うの」ととがめられた。「日本人と変わらないよ」という上から見下ろし、同じ高さまで引っ張り上げるようなまなざし。

「気にしすぎなのかな、自分がいけないのかなと思った。でも、伝えないといつまでも分かってもらえない」。やっぱり、と言う。「隣にいる在日のことを知らなすぎる。前提として在日とはどういう存在かという共通認識が社会にないと、その時点で存在が認められていないような、存在が消されているような気がしてしまう」

原点に朝鮮人虐殺のその後がある。「誰も責任を取らない。調査もしない。殺された人の名前も、遺骨もどこにあるのかも分からない」。差別、蔑視の果てに命を奪ってなおこれほど徹底した無視、非人間的扱いがあるだろうか。

だから、都庁前の抗議で参加者が掲げていた「虐殺をなかったことにしないで下さい 何度も殺さないで下さい」というプラカードが印象に残っていた。知事の決定であったことがなかったことにされ、私の先祖と私はまた殺された。持ち主が同じ在日3世と知り、その叫びが分かる気がする。そう、私たちはすでに殺され続けてきた−。

そうして94年がたち、歴史と向き合わないどころか否定論に乗ってみせる都知事が現れた。

「結構集まってますね」

遠目に映る日の丸と黒服の一団にその影響を思った。

歴史を学ぶ

歴史はいかに継承されていくのかが知りたくて、朝鮮人虐殺の研究を続ける。群馬県ではやはり追悼碑を巡って裁判になっていた。法廷という閉ざされた空間で息をのんだ。「私がこれまで接してきたような、普通に見えるおじさん、おばさんが撤去を求めて傍聴に来ていた」

いま、その普通に見える男女が日の丸の下に集っている。94年前、朝鮮人に手を掛けたのはまさに市井の人たちではなかったか。勉強を続ける理由がもう一つあった。

「自分が差別をしないため。いまの状況でいつそちらの側になってしまわないか、怖いから」。テレビは韓国、北朝鮮をあしざまに伝え、インターネットは罵詈(ばり)雑言に満ち、学校は歴史を教えず、「都民ファースト」を掲げて自らその先頭に立つ290万票を得た都知事がいる。

「日常会話で嫌な思いをしても、かわいそうと思われたくなくて笑って受け流すしかない自分がいる。でも、その友だちも知らないだけ。自分が逆の立場なら戸惑うと思うし」

笑って受け流すしかない、という笑みがまさに浮かんだ。

「どう人と接すればいいか、分からなくなる」

そう口にしたとき、安寧が感じられる唯一の場までも破壊されたことを知った。


時代の正体〈516〉朝鮮人追悼文取りやめ問題 謝罪と反省まで消され

【時代の正体取材班=石橋 学】小高い丘にある横浜市営久保山墓地には関東大震災の犠牲者のうち身元不明や引き取り手のない約3300人の遺骨が埋葬されている。少し離れた脇に立つ「関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑」を前に後藤周(68)は由来と意義を説いた。

「50年以上、贖罪(しょくざい)の念を抱えていた一市民が市の許可を得て建てたもので、市営の追悼の場に追悼碑があるということに意味がある」

建立は1974年。震災当時尋常小学校2年生だった石橋大司が私財を投じた。「多くの日本人は朝鮮人を虐殺したり、目撃したりしているのに口をつぐんでいる。恥ずべきことだ」。石橋は生前、朝日新聞社の取材にそう答えている。

市街地に広がる猛火から一家で逃れる途中、電柱に後ろ手に縛られた血まみれの朝鮮人の遺体を目撃していた。元横浜市立中学校教諭の後藤は、謝罪と反省を示す碑の存在の大きさをこれまで以上に感じていた。

「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」を立ち上げ、毎年9月1日に虐殺現場と慰霊碑を巡るフィールドワークを始めたのは2012年のこと。横浜市教育委員会発行の中学生向け副読本の改訂がきっかけだった。

「デマを信じた軍隊や警察、在郷軍人会や青年会を母体として組織されていた自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い、また中国人も殺傷した」という記述が市議によって問題視され、市教育委員会が改訂に応じた。

http://www.kanaloco.jp/article/275325

(続く)