>>1の続き)

「怒ってはいけない」
「怒りにコントロールされてはいけない」
「怒りを相対化しないといけない」
「怒りとは別に、理性で思考すべきだ」

というようなことを言われると、怒っている人間は、

「君は知能が低いんだね」
「バカはすぐに怒る」
「導火線の短い人間は野蛮人だぞ」

と決めつけられたみたいに感じる。

そんなわけで、怒っている人をさらに怒らせる言葉は、つまるところ

「落ち着いてください」

だったりする。

自分の怒りを制御するのは大変に難しいことだが、他人の怒りに対処するのも簡単なことではない。いずれにせよ、怒りは、処理しやすい感情でもなければ、簡単に消せる感情でもない。それどころか、怒りに身を任せることは、気分をすっきりさせる経験だったりする。
だから、あるタイプの人々は、怒りに嗜癖する。

ここのところがまた、やっかいなところで、結局のところ、北朝鮮による不愉快な挑発がもたらす、最も対処しにくい副作用(むしろ、こっちの方が主作用なのかもしれないが)は、我々の中に滾る怒りの感情だということになる。

怒りにとらわれた人間は、正しい判断ができなくなる。
というよりも、彼らは、正しい判断を拒否する。
自分の怒りをより純粋に燃え上がらせる方向でしか、ものを考えなくなるのだ。

特に集団的な怒りに同調した人々は、明らかに非合理な行動を選択する。
というのも、怒りに嗜癖した人々は、自分の怒りを否定されることを何よりも憎むからだ。

と、怒りそのものが、彼らの行動原理になる。となると、その怒りには、誰も対応できなくなってしまう。

対北朝鮮の話で、手ぬるい話やお花畑なご意見を披露すると、

「譲歩すればつけこまれるだけだ」
「ガツンと言ってやらないといけない」
「思い知らせてやるしかない」
「ビビったら負けだ」

式の声が殺到するのも、腐れマッチョの作用だ。
誰であれ、文字の世界では無敵のマッチョになれる。その文字でできた筋肉が、ネット言論の一部を形成している。

北朝鮮関連について話していると、少なからぬ割合の男たちが、いじめられて泣いて帰って来た小学二年生に「やられたらやり返せ。ここでナメられたら一生いじめられっ子やでぇ」みたいなアドバイスをするスパルタンなオヤジじみた人間に変貌する。

まあ、話が子供のケンカなら、あるいはその場できっちりと報復しておくことが、色々な方面への目配りとして、また、本人の自尊心を防衛する意味で、適切な態度でありうるのかもしれない。私自身は、その方法は勧めないが、そういう考え方をする人たちがいることは理解する。

でも、隣国が繰り出してくる核実験に対して、マッチョな言葉を振り回すのは意味が違う。
マッチョな態度で応じるということになると、さらに別次元の話になる。

相手と同じ狂犬として同じステージに立って牙をむき出してみせることが、仮に男らしい態度であるのだとしても、それは必ずしも賢明な振る舞い方ではない。

安倍晋三首相ならびに菅官房長官は、この一週間ほど、北朝鮮に対して「圧力」という言葉を強い口調で繰り返すことで、国民の怒りに対応しつつ、マッチョなリーダー像をアピールしているように見える。

とはいえ、現状のわが国が、北朝鮮のミサイルや核兵器に対して、有効な「圧力」を行使するだけの「実力」を持っているわけではない。

(続く)