>>254
>『確定した因果関係』と、それだけ。
 
にも拘らず、有史以来ヒトが『完全な客観』を手に入れたことはないわけで、門外漢でしかない俺が数学の記述を眺める時、
常に思うのは、それがとてもストイックな『ヒトはどこまで主観を削ぎ落とせるか』の努力過程〜経過報告〜暫定的結論の
記述に見えることだ。だが論理にしろ思弁にしろ、それらは『記述される過程』において、換言するなら『伝達の過程』に
おいてすでに主観から自由ではあり得ないのだな。それらは伝達者と被伝達者の使用言語や思考履歴などによって必ず、
何らかの制限や条件の介在介入を受ける。
その意味でヒトがAIを作り出す理由は、たぶん『完全な客観』というものが存在すれば、それがたとえ完全ではなくても、
可及的『高純度の客観』であれば、AIの判断をヒトは有史以来初めて『ある種の基準〜静止座標』として獲得できると
考えているからだろう。それによってAIが可視化、あるいは数値化するはずの『ヒトと客観との距離と乖離』はヒトを
絶望させかねないが、それでもヒトは好奇心に駆動されてAIを作り出し、ある意味野放図に進化させるだろう。
これまでの歴史が示すように、ヒトにはなぜか『ショックを受けたがる習性』があるからだ。
 
『ゆらゆらと揺らいでる状況』については最近ではもう、それこそがヒトの成立要件〜実相なのだと思っている。
ヒトであるということは、あらゆる意味において『揺らいでいる状態』のことを指すしかない。
※素朴な感想 / 揺らがないものはヒトではなく知性でもない。