【時代の正体取材班=石橋学】おぞましく、度し難い発言が伝わってきたのは本稿執筆のさなかであった。23日、麻生太郎副総理は宇都宮市内で講演し、朝鮮半島有事で想定される難民について言い放った。

「どう対応するか。武装難民かもしれない。警察で対応できるか。自衛隊の防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」

難民対応の議論を提起するかのような体裁を取りながら、語られているのは朝鮮人への敵視と虐殺の正当化である。

なぜ武装した難民が紛れ込むのかという根拠は何ら示さない。外国からの武力攻撃に対処するための防衛出動を、架空の危機を前提にして持ち出す。

自明のものとして猜疑(さいぎ)の目を向け、問答無用の殺害を真剣に考えるという論理も倫理も欠いた、それでいてあけすけな物言いこそは、失言などではなく確信犯であることの証左に違いなかった。

憲法改正論議を巡って「ナチスの手口を学んでは」と言ってのけ、「結果が大事。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくても駄目なんだ」と、ことあるごとにユダヤ人や障害者の虐殺を主導したヒトラーを持ち出す麻生氏は、人を人と思わぬ、死ぬべき人間と生きるべき人間を分かつ、自らの差別と排外の思想を披歴してみせたのだった。

政権中枢にある自身の発言が危機意識と敵愾心(てきがいしん)をあおる特段の効果を持ち、結果、権力の求心力として働くことを計算に入れながら、である。「朝鮮」と名の付くものは何をするか分からない。確たる根拠がなかろうと、疑われているのだから仕方がない。北朝鮮、朝鮮総連と関係のある朝鮮学校はだから、排除しても構わない−。

粗雑で論理性を欠いた、そこにこそ差別のまなざしが色濃く投影されている東京地裁による判決は麻生氏の発言に重なっていた。

説明なき見下し

9月13日、朝鮮学校を高校無償化の対象から除外した国の処分の是非を問う訴訟の判決言い渡し。田中一彦裁判長の振る舞いそのものがこの国の「意思」を象徴しているようだった。

「原告らの請求をいずれも棄却する」「訴訟費用は原告らの負担とする」

たった2行、時間にして10秒、主文だけ読み上げ、判決要旨の朗読をすることなく扉の向こうへ消えていった法服の背中が冷酷に言い放つ。

生殺与奪の権を握っているのは私たちの側なのだ−。

訴えを退けられた上、理由の説明さえ語られないという徹底した見下しに、傍聴席はぼうぜん自失、ほどなく上がった「不当判決」「ひどすぎる」という怒声さえも力をそがれ、廷内にか細く響くばかりだった。

判決は国側の主張を丸のみにしていた。朝鮮学校を不指定にした理由として主張したのは、朝鮮学校に就学支援金を預ければ不正に流用されるという「疑惑」だった。その根拠として示したものが産経新聞の記事や公安調査庁の調査報告など、やはり確たる証拠と呼べるものではなかった。

しかし、疑惑を裁判所自ら検証し、事実に迫ろうとした痕跡は104ページにわたる判決文からはうかがえない。

原告側は、当時の下村博文文科相が記者会見で拉致問題を不指定の理由に挙げていたことなどから、教育とは無関係な政治的、外交的理由による違法な処分と主張していたが、その訴えは「判断する必要はない」と退け、やはり十分な理由の説明もなく国の判断は「不合理とは言えない」と結論付けた。

東京朝鮮中高級学校高級部の元生徒62人が名を連ねた原告の一人、いまは朝鮮大学校3年の女子学生(20)の涙声が痛切に響いた。

「『棄却』という言葉を聞き、頭が真っ白になった。きっと言い間違えたに違いない、と。後輩の高校生たちも、きっといい判決が聞けると確信して、きょうは堂々とチマ・チョゴリを着てきたというのに」

無償化訴訟は全国5地裁で起こされており、7月19日の広島地裁では原告敗訴、9日後の大阪地裁では一転して原告が全面的勝訴の判決が下されていた。大阪に続き、東京でも−。切り裂き事件や嫌がらせが相次ぎ、登下校で着られなくなって久しいチマ・チョゴリ姿は期待の表れだった。

https://www.kanaloco.jp/article/279968

>>2以降に続く)