>>71

> アングロサクソンプロテスタントというのはヨーロッパを救済したノルマン人に駆逐さ
> れた嫌われ者の劣等白人で、新大陸で自分たちがやられたあらゆる迫害を先住民に行った。

カリブや南米はともかく、米本土の先住民は初期の段階では、
皮貿易をする商業上の取引先であり、先住民は奴隷の売買もし、英仏入植者と平時は良好な関係を保っていた
ハーバードを卒業した先住民もおり、商売相手でなく戦時に頼もしい同盟国(イロコイ連邦)でもあった

「イロコイ連邦は女が農耕をおこない、男は戦士を務める軍事国家だった。彼らは周辺の
インディアン部族に戦いを挑み、敵部族の捕虜に対して両側から棒で殴られる中を走らせ
るガントレットの儀式で試し、これに耐えた戦士を新しい血、公式な部族員として迎えた。
イロコイの戦士の苛烈さは他部族のみならず白人入植者を震え上がらせた。彼らは敵部族に
拷問を行う風習も持っていた。また、彼らは敵部族を征服し傘下とすると、安全保障条約を
結び、その部族に代わって他の部族と戦った。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/ビーバー戦争

先住民の慣習では、敵の集落を襲撃すると女子供問わず残虐な方法での皆殺しか、
拉致するか(子供であれば親を殺して養子とし現地人と結婚させ、強制労働した後に部族に受
け入れられるか宗教上の生贄)の2つの対応をする部族が多いとされている

「1640年代初期、イロコイ族がフランスと交易しているワイアンドット族を混乱させようとしてセン
トローレンス川沿いの集落を襲った。1649年、イロコイ族はワイアンドット族領地の中心部に破壊的
な攻撃を掛け、幾つかの重要な集落と数百名の住民を殺した。殺された中にはイエズス会宣教師の
ジャン・ブレビュフ、シャルル・ガルニエおよびガブリエル・ラルマンが含まれていた。彼らは白人
の間ではローマ・カトリック教会の殉教者と見なされた。この攻撃に続いて、残っていたワイアンド
ット族は五大湖地方のアニシナベ連邦(オジブワ族)の援助を求めて散り散りになった。同地ではオダ
ワ族系のオッタワ族が残って、後にフランスとの毛皮交易を引き継ぐことになった。

1650年代早く、イロコイ族はフランス人入植者への攻撃を始めた。イロコイ連邦の中にはオナイダ族
やオノンダーガ族のようにフランス人と平和的な関係を持っている部族もいたが、モホーク族の影響
下にあることも事実だった。モホーク族は連邦の中でも最強の部族であり、フランス人が存在するこ
とに敵対意識を持っていた。カナクイーズ酋長による和平交渉が失敗すると、好戦的な部隊が北へシ
ャンプレーン湖からリシュリュー川を通ってヌーベルフランスに侵攻し、モントリオールを攻撃し封
鎖した。彼らは森の中を素早く音もなく移動し、突然襲いかかって、斧や皮剥ぎナイフで敵を襲うと
いう常套戦法で、モホーク族は孤立した農園や入植地を襲った。捕虜をイロコイ族の村に連れ帰る場
合もあった。捕虜が女子供の場合は部族の生活の中に組み入れられた。「新しい血」を部族の同胞に
迎える、というこの風習はイロコイ族の伝統文化である。

このような襲撃は常にあるというものではなかったが、インディアンの土地に入植地を開いたヌーベ
ルフランスの住人を恐れさせ、また彼らは無力だった。このような攻撃に反撃したのが、フランス系
カナダ人にとっての何人かの英雄であり、たとえばドラール・デ・オルモーはセントローレンス川
とオタワ川の合流点にあるロング・ソールトでのイロコイ族の攻撃に抵抗し、1660年5月に死んだ。
オルモーはその犠牲によって入植地モントリオールを救うことに成功した。白人の間の他の英雄には、
1692年に14歳で、イロコイ族の攻撃に対する家族の防衛を率いたマドレーヌ・ド・ヴェルシェールがいた。」

こうした襲撃は欧州本国や入植者が先住民を生かしておくと危険という世論を形成していく
日本や欧州各国で外国人嫌いが多いのと背景は少し似ているかもしれない