慣れというのはここまで恐ろしいものなのか。先月の北朝鮮による水爆実験の後、日本のマーケットはほとんど反応しなかった。テレビも通常放送で相も変わらずバラエティーが放映されている。国土の上をミサイルが通過し、子供たちが学校で避難訓練(しゃがんで頭を両手で覆うだけだが)をしているのに、このありさまである。

そうした中、主要各紙は北朝鮮の行為を看過することなく、同国に対していかに対応すべきかを積極的に論じている。だが、リベラルの諸紙では、北朝鮮も日本と同様に平和を尊いと考えているはずというのが前提となっているようで、対話の継続と平和的な解決を訴える。

しかし、その対話の中身については曖昧で、かつ対話がどのようにして平和を導き出すかについて多くは語らない。

思うに、日米などといくら対話し、交渉したとしても、国家の存亡がかかっていると認識している金正恩(キム・ジョンウン)氏は核開発を断念しないであろう。むしろこの場合、時間の経過は北朝鮮にとって有利に働くと考えるべきである。

他方、勇ましいのが保守系とされる諸紙である。日本の核武装論も封印せず、核抑止によって平和を維持すべきではとの議論を展開する。現実主義に依拠する見方らしいが、こちらも私には理解できない。なぜなら、これらの議論は北朝鮮による核兵器保有を是認しているからだ。

冷戦時、米ソの全面衝突は核抑止によって確かに回避された。だが、旧ソ連と北朝鮮は全く異なる性質の国家であり、両国の同一視は間違いなく悲劇を招く。くわえて、唯一の被爆国として、非核の立場の堅持は世界に誇れる崇高な姿勢ではなかろうか。核拡散防止条約との整合性や、中露の反応についての検討が十分になされていないのも腑(ふ)に落ちない。

日本は、平和は当たり前という感覚を長らく有してきた国である。実現困難な核武装の論議より、核シェルターの整備を訴える方がより「現実主義」ではなかろうか。

各紙が共有しているのは経済制裁を一層強化し、北朝鮮にさらなる圧力をかけるべきだとの姿勢だが、これにも違和感を覚える。歴史を振り返れば明々白々だが、石油の全面禁輸のような国家存続に関わる制裁は、戦争を事態打開のための乾坤一擲(けんこんいってき)の選択肢としてしまう。まさしく「窮鼠(きゅうそ)猫を噛(か)む」だ。

昭和16(1941)年に日本を勝算がたたない戦争へと踏み切らせた事例が示す教訓は何か。制裁が確実に効力を発した場合の議論がないのが不思議でならない。

第二次朝鮮戦争を恐れるあまり、第三次世界大戦を勃発させてはならぬ。そのためには、歴史から学びつつ、より深みのある踏み込んだ議論がもっと必要ではなかろうか。



【プロフィル】簑原俊洋
みのはら・としひろ 昭和46年米カリフォルニア州出身。カリフォルニア大デイビス校卒。神戸大大学院博士課程修了。政治学博士。専門は日米関係、政治外交史。

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