筆者が初めて日本を訪問したのは1981年の1月である。日本の文部省国費留学生に選ばれて、日本に留学するためであった。その当時の韓国は海外旅行が自由ではなかった。韓国は海外旅行を自由化できないほど、外貨保有が十分ではなかったことだろう。

それに、海外旅行する人は必ず8時間の教育を受けるように義務付けられていた。教育の内容のほとんどは北朝鮮に関する注意事項であった。そのような状況だったので、飛行機に乗ってみると、機内の乗客の中で、私が一番若かった。

最初日本の生活で印象的だったのは、韓国ではバナナが高く、なかなか手に入らないものなのに、日本ではバナナがすごく安かったことだった。渡航に際して私は父から渡航一時金として1万8,000円を渡された。家庭の事情からすれば、私は当時海外留学などを考える状況ではなかった。

しかし、日本政府の奨学金のお陰で留学が実現した。父と懇意にしていた先生の話によれば、当時の文部省の奨学金は4人家族の一カ月の生活費に当たるとのことだった。普通の留学生は学費を稼ぐためだれでもアルバイトをしている中で、私はとても恵まれた留学生活を送った。

その当時韓国でよく聞かれる質問は、日本で韓国人として差別を受けたことはないのかだった。私は差別どころか周りの皆さんにとても親切にしてもらって、今でも感謝の気持ちで一杯である。そのような恵まれた環境だったので、私は勉強だけに集中でき、毎日1冊の本を読むように努めた。

今でも忘れられないのは、ウォークマンを初めて買って、イヤホンで音楽を聴いた時の感動だ。考えてみればソニーの全盛時代で、80年代は日本の全盛期の始まりでもあった。日本は米国と貿易摩擦で、輸出自主規制に乗り出すほどであった。

その当時は日本の炊飯器が韓国で大変人気で、炊飯器を買ってくるようにとよく頼まれた。今では中国人が韓国で買って行く主なお土産の一つが炊飯器である。

即ち80年代は日本は世界一を目指し、突っ走る時代であった。韓国はその当時日本からトランジスタ技術を教えてもらったり、自動車も日本のエンジンをもらってきて、組み立てるレベルであった。日本と韓国は経済的に大きな格差があった。

日本は韓国にとって羨望の的で、韓国経済を日本と比較するなど想像もできなかった時代であった。2年間の留学を終え、私は韓国に戻った。日本と貿易をする会社に入社し、日本を担当するようになった。日本から電動工具などを輸入する業務であった。

出張で日本に来ると、日本は豊かで、うらやましいことが多かった。名刺を出すだけで付けにしてもらう信用ベースの社会、タクシー券などすべてが私にはカルチャーショックであった。

ところが、韓国も1988年オリンピックの開催に成功し、韓国経済も成長を続けた。その後再び私が日本に来るようになったのは94年である。今回はビジネスをするためであった。94年は日本ではバブルが弾けた後で、日本はそれほど元気がなかった。

今でも覚えているのは、日本人を夜食事に誘ったが、あまりお酒も飲まず、電車がなくなるのでと言って、10時をすぎると帰ってしまったことだ。一方韓国の大手企業はその当時少し自信過剰になっていた。

韓国企業は過剰投資で後でアジア通貨危機に見舞われることになるが、その当時は韓国企業はむしろ日本人の元気のなさを不思議に思っていたほどである。アジア通貨危機を皮切りに、韓国の経済は大きくその体質を変えていく。

早目にその危機を克服したのは事実だが、アジア通貨危機は韓国経済に深い傷跡を残した。個人も大きな痛手を受け、その後貧富の格差がもっと大きくなった。大きな危機を経験した韓国政府は業種ごとに主力企業を決め、過当競争に陥らないようにした。

経済危機を経験しただけに、韓国政府は経済の大切さが身に沁みて、危機に見舞われても潰れないように大手企業を政策的にサポートした。その政策で大手企業と中小企業の格差はもっと開いてしまった。

大手企業中心の政策のお陰で、サムスン電子、LG電子、現代自動車のような企業はもっと飛躍することができた。グローバル企業の誕生によって、韓国経済にも昔と違ってかなりの冨が蓄積されたのは間違いない。

http://www.data-max.co.jp/291003_ry01/

>>2以降に続く)