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ところが、戦後日本では、そのもっとも基本的な原則がほとんど顧みられなかったのである。

戦後日本は、平和憲法と日米安保体制という「絶妙の組み合わせ」で、自国の防衛についてほとんど何の関心も払わず、米軍に国を守ってもらうという選択をしてきた。それをよしとしてきた。しかしこの日本の防衛をめぐる「戦後レジーム」が、いま行き詰まっている、といわねばならない。

“核”とどう向き合うか

もうひとつの問題は「核」である。常識的にいえば、隣国が我が国へ核ミサイルの矛先を向けているときに、防御態勢を万全にするのは当然である。北朝鮮の保有する核兵器は60基ともいわれ、ノドン・ミサイルだけでも200基が配備されているといわれる。

イージス艦からの迎撃ミサイルはもちろん、パトリオットの国内配備を含めた迎撃システムの構築は、戦略上必要なことである。しかし、より重要なことは、防御態勢の整備とともに抑止力を持つことであり、核に対する抑止力は核以外にない。

現在、日本が敷いている態勢は、非核三原則のもとで日本は核を持たずに、アメリカの核の傘の下で抑止力を発揮するというものである。これが欺瞞であることはいうまでもないだろう。日本は世界中の核使用に反対しつつ、日米同盟のもとでアメリカの核によって守られる、という事態は欺瞞以外の何ものでもない。

もし、すべての核保有に反対するならば、北朝鮮だけではなくアメリカの核保有にも反対しなければならない。アメリカの核抑止を認めるなら、まずは他国のそれに反対する理由もない。アメリカの核抑止は適正なもので、北朝鮮のそれは誤りだというなら、それだけの説得力ある説明が必要になる。

もしも、「国際社会」において信頼を得ている国であれば核保有を認める、というなら、日本や韓国にもその資格はあるだろう。

私は、日本は核武装せよ、といっているわけではない。われわれの中に大きく渦巻くような反核感情があることも事実であろう。しかし、その核を日本に投下したのはアメリカであり、戦後日本はそのアメリカの核抑止によって安全を担保してきた。

このいびつな構造から目を背け、「核アレルギー」というだけではなく「核思考アレルギー」になってしまった。核は無条件に、全面的に悪なのか。隣国が核保有にいたったときにどうするのか。また、世界の核保有体制をどうみるのか。その種の「思考」さえ停止させてしまった。

北朝鮮問題は、われわれに改めて、日本は「核」とどのように向き合うか、という課題を突き付けているのである。

日本国憲法は、その前文に、「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。それを受けて、九条の武力放棄、平和主義がある。しかし、今日、この前文の条件は成り立っていない。

まわりをぐるりと見わたして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できる国を見つけるのは難しい。戦争や安全保障の形態が変わってしまったのである。いま問題としている戦争は、かつてのような他国の領土を支配するための侵略戦争ではない。日本もアメリカも北朝鮮も別に領土的野心があるわけではない。

しかし、「国際社会」「同盟」「核」といった戦争を抑止するための概念が、安全保障上の不可避の課題になった結果、逆に偶発的に戦端が開かれる可能性を高めている。この苦い現実を我々は噛みしめなければならないのである。

佐伯啓思(さえき・けいし)
1949年生まれ。社会思想家。東京大学経済学部卒。保守主義の立場から、経済や民主主義など、さまざまな社会事象を分析。近著に『反・民主主義論』(新潮新書)がある。

週刊新潮 2017年10月12日神無月増大号掲載
特別読物「『核の傘』は日本を守ってくれない――京都大学名誉教授・佐伯啓思」より

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(おわり)