大挙して日の丸を掲げ、「朝鮮人だろ」等のヘイトスピーチを行いながら、安倍首相を守り抜く戦前の特高かヤクザまがいの親衛隊。

街頭演説で安倍が登壇する前にバイオリンで演奏される君が代。

やはり、日の丸君が代強制問題に触れないわけにはいきません。

あふれるばかりの日の丸は在特会など極右団体の集会では必須アイテム。

アレを見てしまうと、もはや日の丸君が代の実態は多種多様な国民のゆる〜い結合を表すシンボルではなく、完全に戦前並みの極右国粋主義、ファシズム、拝外差別主義のヘイトのシンボルと感じずにはいられません。

もちろん戦前戦中は、日の丸君が代は天皇制軍国主義のシンボルであり、敬意を払うように強制されていました。

戦後、日の丸君が代は国旗、国歌と法律で定められるされることもなく慣習的に継承されてきましたが、今のように強制などされなかったので戦前の軍国主義的な意味合いはなんとなく休眠状態になっていました。

でも、極右勢力が堂々と世に出てくるようになり、戦前の日本をあがめる彼らが戦前のように日の丸君が代を掲げ、その日の丸君が代は国旗国歌だと法律で定められ、やがてそれが強制されるにつけ、再び極右、ファシズム、拝外差別のシンボルとしての意味合いが覚醒してきました。

彼らは日の丸君が代はそういうもののシンボルだと認識しているからこそ、教育現場で処罰をもって強制するのでしょう、お前らもこの思想に従え、といわんばかりに。

強制されるまでは別に日の丸君が代をそんなに嫌だと感じてなかったけど、強制されるようになってから嫌になった、強制されるのが嫌だ、という人が多数います。

強制されるからこそ、日の丸君が代は極右のシンボルとなるのです。

極右に明確な反対の意を示すか、それとも、積極的に賛成するまでいかなくてもいいから反対せず沈黙するか、日の丸君が代強制に従うか否かは、その踏み絵に等しいです。

卒業式には日の丸を掲げ必ず君が代を口パクでなく歌え、そうしないと処罰する、教師達はそう強制されています。極右に明確な反対の意を示す者は排除してやる、と言う思惑を感じずにはいられません。内心に土足で踏み込まれるような感じ。それは小池百合子よりも熾烈な排除です。

日の丸君が代は、強制される事によって、多様性を認めない排除のシンボルになりました。

日の丸君が代の強制がこのような意味合いを持つ中でそれに抗しないということは、大げさに言えば、自由や人権、民主主義、寛容な多様性社会、と言った近代の崇高な理念を自分が否定してしまうように思えるのです。

国歌と国旗は諸外国では自然発生的に生まれたり、国民が自由と人権を勝ち取っていく中で生まれたりしたものが多いですが、極右国粋主義、ファシズム、拝外差別のシンボルが国旗、国歌だなんて、そんな国、日本以外にあるんでしょうか。

http://blogos.com/article/254354/