※続きです

本書では「朝鮮人たちは当時、中国や東南アジアなどの日本軍占領地や前線地域で、食堂や慰安所などの商売を営んでいた。当地において朝鮮人は、ビルマ、シンガポール、インドネシアの東ティモールやスマトラ、マレーシア、タイ、ボルネオなどに広くネットワークを持っており、慰安業以外にも食堂、料理屋、餅屋、製菓所、豆腐屋、製油工場、写真館などを経営していた」という点も指摘されている。
日本軍占領地で慰安所を含む経済活動に、多くの朝鮮人が事業主として重要な役割を担っていたのである。

そして、この日記を書いた朴氏は、遠く離れた異国の地から、東方宮城に向かって遥拝し、皇軍の武運長久、戦没将兵の冥福を祈る、典型的な大日本帝国臣民であった。
崔教授は「日記全体の文脈からは、彼が日本の帝国主義に不満を持ち、母国の独立を願う気持ちを持っていたとは、とうてい思えない」と述べている。
戦後の日本人が教えられてきた「日本に虐げられた朝鮮人」の姿は、この日記には見られない。

崔教授は慰安婦問題の政治的側面についても言及している。
なぜ韓国が慰安婦、性の問題を日韓関係の政治的なカードにしているのか。
それは、慰安婦問題で反日感情を煽ると、国民意識を統合させ、外交の効果を高められる、と考えているからだ。
それによって、元慰安婦に誠実な謝罪が必要だと主張する人権主義者たちやフェミニストたちとも連携しやすくなる。

しかし、崔教授はそんな韓国に対して、次のようにはっきり苦言を呈している。
「性的被害をもって問題とすることは、どの国、どの民族でも可能だ。それは、性が人間にとって普遍的なものであり、人間の生存にかかわる問題であり、恥と人権にかかわることだからである。韓国が、セックスや貞操への倫理から相手を非難することは、韓国自身のことを語ることに繋がっている。つまり、それを詳しく論じることは、いつか必ず本人に戻るブーメランのようなものなのである。ただちに中止すべきである」
本書は、極めて客観的な姿勢が貫かれており、「慰安婦問題」まで生み出した戦後歴史観のバイアスの大きさを、日本人に気づかせてくれるものと言えよう。

※以上です〆