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【中央日報】日本与野党議員60人、靖国神社に集団参拝
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0001動物園φ ★
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2017/12/06(水) 10:52:52.67ID:CAP_USER
2017年12月06日10時07分
[? 中央日報/中央日報日本語版]

日本の与野党議員約60人が5日、靖国神社を参拝した。NHKなどによると、「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の所属議員はこの日午前、千代田区九段下の靖国神社を共に参拝した。

彼らは10月の秋の例大祭の際、衆院選期間と重なるという理由で参拝せずこの日に神社を訪れた。当時、会長を努める尾辻秀久議員だけが参拝し、残りの議員は選挙が終わった後に集団参拝すると明らかにしたことがある。所属議員は毎年、春と秋の例大祭、終戦記念日(8月15日)などに集団参拝をしている。

この日には安倍首相の側近である江藤衛藤晟一首相補佐官が秋例大祭に続き再び参拝した。内閣では奥野信亮総務部大臣、佐藤正久外務部大臣、水落敏栄文簿科学副大臣、渡嘉敷奈緒美環境部大臣が靖国神社を訪れた。議員は自民党だけでなく民進党、希望の党、日本維新の会など野党所属もいた。

安倍晋三首相は秋例大祭の際、「内閣総理大臣安倍晋三」名で真榊(まさかき)を奉納した。尾辻会長は参拝後、記者会見で「北朝鮮の動きもあるので、新しく合祀されるような方が決して出ないようにと祈りながらお参りした」と話した。

靖国神社は太平洋戦争などで亡くなった約246万6000人を神として祭っている。極東軍事裁判(東京裁判)で絞首刑を言い渡された東條英機元首相をはじめ、太平洋戦争A級戦犯14人も合祀されている。

http://japanese.joins.com/article/198/236198.html?servcode=A00&;sectcode=A10
0301<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:12:27.19ID:qCSIR2mr
>>298
自民は実は反日なんだよ。正確に言えば反日本人。
0302<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:21:24.06ID:o3Hvv+J6
>>256
御典医って何人もいるんだぜ、しかも高級武士ではない、武士待遇されてる、程度の存在。
そんなのが1人や2人居たってwwwwwwwwwwww
0303<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:22:45.45ID:o3Hvv+J6
>>299
政教分離っていう言葉の意味わかってる⁇ 馬鹿チョンには無理⁇
0304<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:27:14.14ID:o3Hvv+J6
>>299
政教分離ってね、政治家が宗教を進行しちゃダメってことじゃないのよ、お馬鹿なんだから〜〜馬鹿チョンたら〜〜
0306<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:40:53.23ID:/J6yD+M9
>>21
多分それがバレるのを一番奴等が恐れてるかも。併合された証やからね。
0307<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:46:26.67ID:4CFIOcCZ
毎日、毎日靖国へ参拝してくれ
朝鮮人のうぜえ記事読みたくない
正月は家の前に旭日旗飾る習慣になってくれ
0308<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/08(金) 23:51:49.99ID:tAYsUUlk
政治屋が宗教を信仰するのはOKなんだから集団で行かなくても良いし、毎日行ってもOKだろ、
いい加減大騒ぎするのは止めてもらいたいね、もっと注目すべき事があるだろ。
0309<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:04:55.79ID:dwQQp/1h
>>305
日本には反日本人政党しかないよ。
白人が作ったマイノリティによる間接支配だからそうなってる。
0310<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:09:24.37ID:SopgHOBY
>>309
だからバカチョンの陰謀妄想なんぞ知ったこっちゃないんだよ
気に入らなかったら自分で政党作って立候補しろ
それか日本から亡命しろ
0313<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:16:18.90ID:dwQQp/1h
>>310
自民はインバウンドやらで外国人だらけにしているのは事実。
0314<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:27:48.77ID:SopgHOBY
>>312
うさん臭い論文だなw
壬辰・丁酉倭乱とかまんまチョンの側の呼び名だしw
乃木の家系図っていろんなのがあって学説様々なんだが?

だからバカチョンの陰謀妄想なんぞ知ったこっちゃないんだよ
気に入らなかったら自分で政党作って立候補しろ
それか日本から亡命しろ
0315<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:31:44.17ID:SopgHOBY
チョンの珍論文なんぞどこにも載ってないな

野木(乃木)氏(宇多源氏佐々木氏族)[編集]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9C%A8%E6%B0%8F
出雲国に発祥の氏族で、同国内の地名に由来し、表記は野木、乃木、能義、野城が通じて用いられている。『和名抄』では能義に乃木の注記があるとする。
宇治川の先陣争いで知られる佐々木高綱の次男・光綱が、出雲国能義郡野城郷(または意宇郡乃木保)に住し、野木二郎左衛門尉と称したのに始まる。
なお、佐々木系図では能義二郎左衛門尉と表記されている。
光綱は、叔父の隠岐守・佐々木義清の猶子となったとされる。『尊卑分脈』をはじめとする諸系図に鎌倉時代の数代が載るほか、
一次資料としては、「出雲千家文書」所収の文永8年(1271年)の関東御教書「出雲国杵築大社御三月会相撲舞頭役結番事」に、出雲国内の地頭として、光綱裔と推定される次の一族の記載がある。

 能義郡乃白庄  乃木太郎兵衛尉(光綱の子・春(泰)高又は孫・景元に比定)

 〃 日吉末社  同人

 意宇郡乃木保  乃木七郎 (光綱の子・七郎景家に比定)

 神戸郡木津御島 乃木四郎子(四郎高定の子の四郎清高(光綱の孫)か、大伴氏系図によれば四郎高定の母は朝山惟綱娘)

高綱の名が平家物語等で後世まで語り継がれる一方、子孫は振るわず大身の武家となる有力な系統が出なかったため、室町時代以降の詳細は不明である。

隠岐流・佐々木氏の宗家である塩冶高貞が暦応4年(1341年)に山名時氏らに追討された後は、出雲守護となった山名氏や京極氏などの被官となり、
一族は但馬国や畿内などに分散していった模様であり、一次資料や軍記物に断片的に登場している。

天文3年(1535年)の「但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳」には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。
但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年8月24日(1569年)付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。
0316<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:33:07.63ID:dwQQp/1h
>>314
論文のソースである長州の家系をまとめた「藩中略譜」に乃木家は朝鮮系とあるのは事実。
0317<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:35:11.57ID:dwQQp/1h
>>315
それらは関係ない乃木家。

長州の紳士録の藩中略譜に乃木家が残したのが事実。
0318<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:37:14.13ID:dwQQp/1h
>>315
藩中略譜には但馬国の乃木谷にいた朝鮮人が乃木を名乗って乃木家の祖になったとある。
0319<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:48:51.86ID:SopgHOBY
>>317
関係ないって、その先みればわかるけど、自称してるじゃねえか
ならなんでこんなに家系図がそんなにいくつも流布されてんだ?
手前に都合のよい説だけつまみ食いしてるだけだろ
在日認定のチョンw

明治維新はチョンが起こしたw
チョンだけが信じてる珍説www
0320<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 00:50:10.52ID:SopgHOBY
長州、長府藩士家乃木氏[編集]

山名氏や京極氏などの被官となり、但馬国や畿内などに分散していった一族のうち江戸時代に毛利家に仕えた乃木氏がある。
『乃木大将事跡』ではこの家は畠山政長の家臣で明応の政変(1493年)で討ち死にした源次左衛門清高の妻で当時妊娠していた粟津氏が但馬国乃木谷に逃れて遺児、秋綱を生み、
秋綱が乃木氏を称したとする。その後同家は美濃国の土岐氏、斉藤氏、古田兵部、長門国長府藩祖毛利秀元などを転々とした末に乃木傳庵が長府藩に藩医としてに仕えて以降、代々長府藩士となる。

この家より出た、母の縁で玉木姓に改称した玉木春政を祖先とする玉木家と乃木希和を祖とする乃木家が長州藩に仕官する。

これらの末裔が明治時代の陸軍軍人・乃木希典や玉木文之進が連なる。希典は祖先に対する尊崇の念が強く、全国各地で高綱流の調査・顕彰に努め、殉死前には、
同家の系図を佐々木氏の氏神である沙沙貴神社に奉納している。また、甥にあたる玉木正之も乃木・玉木両家の系図を詳細に整備している。


チョンの珍説は本人も意にかえさずw
0321<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:02:54.21ID:1kCWKxwO
天満宮の祭神菅原道眞に見られるように

実在の人から優れた神性を取り出して
祭神とすることは
日本ではある
0322<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:04:14.54ID:Z8HiroVQ
こんなことやってるから慰安婦合意破棄されんだよ
靖国に頭下げる前にまず慰安婦一人一人に土下座しろや
0323<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:06:08.39ID:FabjD75K
>>322
なんで売春婦に頭下げる必要があんだバカチョン
0324<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:10:47.34ID:Z8HiroVQ
>>323
いつまでその態度でいられるか見物だな(笑
0325<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:11:59.51ID:fy5Fc4J4
俺家族に戦死者いないし、靖国神社なんて如何でも良いんだけど、支那チョンが騒ぐってことは参拝が正しいんだろう。と言うことで去年行ってきた。
0326<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:13:04.30ID:fy5Fc4J4
>>322
一発やる前にオマンコ拝めってかwwwwwwww
0327<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:14:51.80ID:fy5Fc4J4
>>322
郷に入っては郷に従えってか。チョン国では売春婦と一発やる前にマンコを拝むのかwwwwwwww知らなんだ。
0328<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:17:16.01ID:fy5Fc4J4
>>319
まさかタマキンと乃木将軍が同族とか言うなよ。
0329<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:18:38.33ID:Z8HiroVQ
こんな感じで当時の朝鮮人も貶められたんだろうな
70年経っても何も変わらない民族気質
0330<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:18:41.55ID:fy5Fc4J4
>>323
9センチで我慢して貰うんだから土下座は必須だろう。彼の国独特の風習。
0331<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 01:28:18.61ID:SopgHOBY
>>329
イジメてたのはおまえの先祖のチョン
それを解放して文明化してやったのが日本な
0332<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:42:50.67ID:dwQQp/1h
>>320
明治に由緒かえた。藩中略譜が藩の公式紳士録。論文にもかえた経緯あるだろ。読んでないのか?
0333<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:44:53.20ID:dwQQp/1h
>>321
菅原道真は御霊信仰。
御霊信仰は非業の死を遂げた敵を祀るもの。
靖国本殿合祀には幕府側はいない。
0334<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:47:14.80ID:dwQQp/1h
>>325
二項対立は思考の罠。
支那チョンと靖国はどちらも日本人の敵。
つーか、プロレスみたいなもの。
0335<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:52:15.70ID:dwQQp/1h
>>320
乃木大将事蹟は1916年に編纂された新しい本。
藩の正式な紳士録の藩中略譜が真実。

『乃木大将事蹟』による乃木家系譜は「希典の副官をつとめ、希典の死後、乃木家の遺言執行者に選任され、乃木家の後始末にかかわった塚田清市(陸軍歩兵大佐)が編集したものである。

戦前戦後を通じて、乃木希典に関する代表的書物の一つであり、(中略)記載されている「乃木家系図」は、いわば戦前の公認された乃木家の系譜であり、戦後の諸本の多くもこれに準拠している。

とされている。
0336<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:53:00.06ID:K723DlKK
シナチョンの難癖でなくす必要がないもんな
あとは某宗教とか某宗教のデマ
0337<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 06:53:39.29ID:dwQQp/1h
>>320
『日本近代「家」制度の研究 乃木伯爵家問題を通じて』(井戸田博史著 雄山閣出版 1992)p21

乃木家の系譜について、流布の諸本に異同があるうえ、世にいわれている系図と、長府図書館・長府博物館所蔵の『藩中略譜』、山口県立文書館の『譜録』などともかなりの違いがある。

とされている。
0340<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:16:24.75ID:WL/iACbs
>>16あれを正式な裁判って思っているの?
どのみち講和したからノーサイドだね。
中共や韓国ってスゲー差別主義の国なんだね、他国の宗教観にケチつけてさ。
0341<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:18:59.20ID:dwQQp/1h
李家氏とは、その変わった名字から察せられるように、朝鮮系の渡来人が祖である。豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、全羅北道の南原城(ナモンソン)攻防戦において、
城を死守した全羅道兵馬節度使忠壮公、李福男の末子慶甫(のち元宥)が毛利軍に捕らえれて長州萩に連れてこられた。この元宥が李家氏の祖である。

『萩藩諸家系譜』によれば、李家氏は李氏朝鮮王族の支族という家柄の高さにより、寄組500石の家格で遇され、典医、侍医として藩主に仕えた。

前原・山県らから書簡を受け取ったのは、十代目の当主、李家文厚である。文厚も御典医で、馬関戦争では野戦病院長となり、四境戦争でも従軍医として活躍した。
とくに高杉晋作が重篤に陥ったとき、藩主からの見舞医としてその最期を看取ったといわれる。

そのような経歴から、名だたる長州藩士たちとの交流があったのだろう。書簡の内容も病気の相談事などが多い。
なかでも面白かったのは、前原一誠のある書簡である。前原は文厚に悩みを打ち明けたり、北越戦争の苦戦の様子を報告したりと、単に医師と患者という関係を超えて親交があったようだ。
それでも、やはり病気の話が面白い。前原は湿疹系の病気が多かったらしい。たとえば、

「面部一面ニ発疹、格別粒立候様ニも無之候共、極而痩而御座候、脊之辺へも少々吹出し候様ニ御座候」

という具合で、顔や背中に湿疹ができていたようである。
とくに噴き出したのは次の一節。

「二白 弟、淋病再発、大ニ困窮難儀仕候得共、未施薬餌如何仕候而宜御座候哉」

と、文厚に再発した淋病の治療法を尋ねている。
前原は別の書簡で次のような告白もしている。これが淋病の原因か。

「彦太、(中略)内情欲ヲ恣ニシ、陰ニ登楼、妓抔愛シ、其罪井林ニ不下」

李家氏の歴史は数奇なものである。とくに長州藩では萩焼の歴史とも重なっていよう。
ちなみに、薩摩焼の陶工として著名な沈寿官も、李家氏と同じく南原城から連行された陶工の末裔である。

『幕末維新名士書簡集―李家文書―』李家正文編
0342<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:21:00.88ID:dwQQp/1h
じつはな、「靖国は朝鮮カルトだ」 !

靖国神社の前身は長州の「招魂社」だ。

「招魂」とは神道ではなく、朝鮮朱子学の葬礼儀式だ。死人の魂をこの世に留めて守り神のような「鬼」として使役するための儀式だ。

「招魂 朱子学 朝鮮」で、ぐぐれ!

「死して護国の鬼になる」と言うだろ。
これが「招魂」の効果だよ。

因みに平安以降日本では死んだ人を招魂することは禁忌だった。
日本の陰陽道としての招魂は生者に対してのみ行う術であり、死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた
詳しい論文はこちら。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/OS/0037/OS00370R265.pdf

中国では、『晋書』によれば東海王・司馬越の死に際して、その遺骸が焼かれてしまったため、
その遺族が「招魂葬」を嘆願したという記録がある。しかし、中宗が「塚は遺体を蔵すものであり、廟は神を安んずるものである。
招魂葬なるものは神を理める行為である。」という博士の意見を容れて「礼に失する」ということで太興元年(318年)に禁止したとされている。

また、招魂(초혼)を韓国語wikiで調べて翻訳した。

招魂は、魂を呼ぶ民間の意識である。ゴボク(皐復)とも呼ばれている。

今日、民間では庭で「 ○○同里の○○○服・スーツ・スーツ」と呼んで死んだ者の上着を屋根の上に投げる。
その投げられた服を屋根からひっくり返したご飯と一緒に母屋の外側に置いておいたり、納屋の隅にたたみ入れたり、
死体の胸の上においたたりする。

これは人が死ぬこと魂が抜けたと信じて、出て行った魂を呼び死者を復活させるせようとする信仰に由来した行為である。

<Youtubeによる映像>
韓国原曲「招魂(초혼)」(2010年)
韓国固有の信仰(巫俗)ベースにした映像
http://milestone-milestone.blogspot.jp/2012/10/blog-post_23.html?m=1Evaluation:
0343<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:22:56.31ID:dwQQp/1h
長州は朝鮮化したところ。

日本で屋根瓦がオレンジ色なのは沖縄と山口と広島の一部だけ。
0344<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:24:03.63ID:dwQQp/1h
「大内者本来非日本人、蒙古国者也、或又高麗人云々」(大乗院寺社雑事記)

現代訳:長州人(大内者)は日本人ではない、モンゴル人か朝鮮人だ!

応仁の乱で大内政弘が京都を荒らしてた頃から、
「長州人=朝鮮人」と批判されてたわけで、
反「薩長史観」は今に始まったことじゃない。
0345<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 08:36:26.92ID:1kvMPMrz
>>1
靖国参拝は日本の文化
韓国がいくら難癖つけても
「またあのバカ民族が難癖つけてるwww」
くらいにしか思われない
0346<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 09:46:01.96ID:efa+oYvR
>>345
靖国なんて神道ですらない新興宗教。
祭神、教理、祝詞、神官資格も神道でない。
形だけ真似ただけ。
0347<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 09:47:23.53ID:efa+oYvR
靖国の儀式はテキトーw 



ロンドン大学日本宗教研究センタ所長 
ジョン ブリーンの靖国の解説は靖国が宗教というより適当な儀式をやっているだけの新興宗教ということがよくわかる。 



ここで、霊璽奉安祭と秋季例大祭にちょっと話を戻しますが、それらの神学的意義について、靖国の神職の友人に何度か尋ねたことがあります。

これはキリスト教圏で生まれ育った私ですから、こういう疑問が湧くこと自体仕方ないんですが、「霊璽奉安祭の場合は、相殿(あいどの)にずっと宿っていた御霊と、内々殿に移行したその御霊とどう違うのか?」とか、

「英霊が存在するあの世とこの世とがどう結びつくのか?」とか、それから、「靖国の祭神と古事記・日本書紀に出てくる神々との関係はどうか?」とか、 
そのようなことについて尋ねたことがありますけど、
私の友人の神職は、必ず「自分が不勉強でちょっと解りません」などと答えてくれるんです。 
その神職の方は、解らないのではなくて、これらのような神学的な勉強する必要を感じないようです。

これは当然かもしれませんけど、結論的に言えば、靖国はあんまり神学と関係のないところだということが判りました。 
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen13.htm
0348<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 09:48:28.88ID:efa+oYvR
>>345
靖国の神楽はブラスバンドw

これも日本の伝統かw

まず、宮司は神楽笛を伴奏に、階段を昇っていく。
そして、水漬く屍という不気味なタイトルの曲が流れる中で、宮司は内陣で構える。
本殿の光が消される。 

そして、神職たちは霊璽つまり戦死者の名前を紙に書いたものを相殿から取り出し、宮司に渡す。
すると、宮司はこれらの霊璽を内陣に運び、祭壇の上に置く。 

そして、退下する。
宮司が階段を降りると、ブラスバンドが海の幸、靖国の歌、山の幸など、より陽気な曲を演奏する中で、 
神職たちは、内陣に移行された霊璽に様なものを供え、そして宮司は上段の間に移動し、玉串を供える。

http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen13.htm
0349<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 09:50:01.91ID:efa+oYvR
神道も明治に作り出された。


神仏判然令

明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。

これが「神仏分離」政策です。掲載資料は、3月28日に発せられた「神仏判然令」と言われるものを「太政類典」という資料に採録したものです。

神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。

http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m01_1868_03.html
0350<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 09:50:23.99ID:efa+oYvR
天皇崇拝および日本崇拝(忠君愛国教)は、その日本の新しき宗教であって、もちろん自発的に発生した現象ではない。
二十世紀の忠君愛国という日本の宗教は、まったく新たなものである。

一般の人民はなおも仏教に対して愛情を抱いていたし、一般の祭礼も仏式であり、死者を葬るところも仏寺であった。

しかし支配階級はこのすべてを変えようとした。天皇は太陽女神の直系の子孫であり、彼自身は地上の生き神 (現神 あきつかみ)で
あって、自分の臣民に対して絶対的な忠誠を当然に要求できるものである、という神道の教義を主張した。

神話と古代史と称するものが同一の書物に記載され、どちらにも同じようにありうるべからざる奇蹟が麗々しくでて
いる。年代記は明白に虚偽である。古代の天皇の口から出たという勅語は、中国の古典から抜粋した寄せ集めである。

日本国民は、その支配者の超自然的美徳にあやかるところがあって、『武士道』と称して、劣等の国々には知られて
いない高尚なる騎士道によって特に秀でていると主張している。
官僚階級があらん限りの力を
用いて組み立てようとしている思想の構造は、以上のごとくものである。

『日本事物誌』バジル・ホール・チェンバレン

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4256181245/yokohamagoyok-22/ref=nosim/
0351<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 09:51:43.17ID:efa+oYvR
靖国もだが、日本会議と一体化してる神社本庁は反日本人組織だよ。

「神道は江戸時代に伝統時な日本人の宗教が朝鮮朱子学に背のりされてできた準新興宗教、靖国は新興宗教」。

今の神道は、伝統時な宗教との違いはキリスト教とイスラム教以上にちがう。祭神が変わっているからだ。
神仏習合の日本の伝統の破壊者だ。

神仏分離だけじゃなく江戸時代半ばから
明治初期に多くの神社で祭神変わっているんだよ。

「合祀令」で検索。

有名なとこでは神田明神なんて平将門は本殿からはずされた。 また、品川神社は江戸時代は牛頭天王が祭神だった。出雲大社ですら江戸半ばに祭神が変更をされてる。

記紀神話の天皇につながる神でない多くの神は祭神変更されたんだよ。

そして新興宗教の靖国とか作られた。

自分が参拝する神社の古地図をみろ。名前も祭神も違う可能性が高い。
一般的な神道の知識は改変後の神道を古来の神道とする捏造でしかない。

品川神社が牛頭天王だった話。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000010700/hpg000010623.htm

神田明神に平将門が、居なかった話。
http://www.news-postseven.com/archives/20121228_162646.html

出雲大社の祭神がスサノオだった話。
http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-010.html
0352<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:34:11.21ID:SopgHOBY
>>335
本人の自称が一番根拠になるに決まってんだろ
妄想バカチョンw

長州、長府藩士家乃木氏[編集]

山名氏や京極氏などの被官となり、但馬国や畿内などに分散していった一族のうち江戸時代に毛利家に仕えた乃木氏がある。
『乃木大将事跡』ではこの家は畠山政長の家臣で明応の政変(1493年)で討ち死にした源次左衛門清高の妻で当時妊娠していた粟津氏が但馬国乃木谷に逃れて遺児、秋綱を生み、
秋綱が乃木氏を称したとする。その後同家は美濃国の土岐氏、斉藤氏、古田兵部、長門国長府藩祖毛利秀元などを転々とした末に乃木傳庵が長府藩に藩医としてに仕えて以降、代々長府藩士となる。

この家より出た、母の縁で玉木姓に改称した玉木春政を祖先とする玉木家と乃木希和を祖とする乃木家が長州藩に仕官する。

これらの末裔が明治時代の陸軍軍人・乃木希典や玉木文之進が連なる。希典は祖先に対する尊崇の念が強く、全国各地で高綱流の調査・顕彰に努め、殉死前には、
同家の系図を佐々木氏の氏神である沙沙貴神社に奉納している。また、甥にあたる玉木正之も乃木・玉木両家の系図を詳細に整備している。


チョンの珍説は本人も意にかえさずw
0353<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:34:50.79ID:SopgHOBY
関係ないって、その先みればわかるけど、自称してるじゃねえか
ならなんでこんなに家系図がそんなにいくつも流布されてんだ?
手前に都合のよい説だけつまみ食いしてるだけだろ
在日認定のチョンw

明治維新はチョンが起こしたw
チョンだけが信じてる珍説www
0354<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:35:38.51ID:SopgHOBY
>>332
ソースはそいつがいってるのみ
変えたという根拠ゼロ
本人も無視w
0355<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:36:20.64ID:SopgHOBY
反応はやいなw
1日中監視してんのかw
おまえは上級国民だの朝鮮カルトだの言いたいだけだろ

江戸も明治も繋がっていて同じ日本だろ
おまえこそ歴史分断するシナチョンじゃねえか

ならなんでシナチョンは明治以降の日本腐すんだよ
明治以降日本が戦わなければ録な世界になってなかったろうな
0356<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:36:48.03ID:SopgHOBY
チョンが日本を支配しているというチョンの妄想w
明治維新はチョンが起こしたという珍説w

やっぱおまえチョンだろw

チョンを過大評価する、まさにウリナラホルホルチョンw
0357<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:37:48.92ID:SopgHOBY
>>349
>>350
神仏習合なんて江戸時代以前からある考え方だし
なにその外人の妄想w
0358<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:38:54.72ID:SopgHOBY
>>342
招魂というのは「お盆」みればわかるように日本にも中国にも古くからある考え
またチョン起源にしようとか、そうはさせねえよ
バカチョン
0359<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:41:11.36ID:SopgHOBY
>>349
そりゃ国教化を企てただけで土着の神道はずっと息づいてるな
日本の宗教を腐すバカチョンめがw
0361<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:46:01.69ID:oS1nypXn
>>349
>神仏判然令
>
>明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。

キリスト教に対抗するために神道を利用とか聴いたことがある。

キリスト教国のヨーロッパ諸国から宗教を利用した植民地支配を阻止する意図が有ったかも知れない。
戦国時代に来日した頃の宣教師は、その国を植民地支配するための侵掠の尖兵の役割を果たしていたしね。
0362<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:46:18.60ID:SopgHOBY
神道を腐すコピペバカチョンにはコピペで対抗

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる[31]。
また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある[31][23]。

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。
皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。
明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。
0363<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:47:55.88ID:SopgHOBY
神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0364<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 11:58:53.43ID:oscwEUVu
靖国神社に行った議員を当選させよう!!
0365<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:09:14.81ID:efa+oYvR
>>363
近くの神社の古地図みろよ。
多分明治以降に祭神変わっているよ。

「儒家神道、国家神道は江戸時代に伝統的な日本人の宗教が朝鮮朱子学に背のりされてできた準新興宗教、靖国は新興宗教」。

今の神道と江戸中期までの日本の伝統的な宗教との違いは、
キリスト教とイスラム教以上ぐらいある。

祭神が変わっているからだ。
記紀神話の天皇につながる神以外祭神変更されたんだよ。

合祀令で検索!

神仏

そして新興宗教の靖国とか作られた。

それぞれの神社の古地図をみろ。名前も祭神も違う。あなたの知識は改変後の神道を古来の神道とする捏造されたものでしかない。

品川神社が牛頭天王だった話。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000010700/hpg000010623.htm

神田明神に平将門が居なかった話。
明治七年(1874)、明治天皇の行幸が決定。
すると、明治政府が天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られている事を問題視。
この事により将門公が御祭神から外されてしまう。

代わりに少彦名命が茨城県の「大洗磯前神社」から勧請される。
以後、長年、将門公の御神霊は境内摂社に遷されたままとなっていた。

http://www.news-postseven.com/archives/20121228_162646.html

出雲大社の祭神がスサノオだった話。
http://www.izumo-murasakino.jp/yomimono-010.html
0366<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:09:58.60ID:efa+oYvR
>>363
神道は日本の神仏混淆の伝統宗教に朝鮮朱子学が背乗りして江戸時代半ばにできた新興宗教。

大義名分論を強調した李退渓の学説は、その系統を嗣ぐ姜?(カンハン)という学者が、16世紀末に日本の捕虜となって日本に連れて行かれ、後に京都に招かれて藤原惺窩と交流し、強い影響をあたえた。
藤原惺窩によって取り入れられた朱子学は林羅山らによって江戸時代の公認の学問とされることになった。

そして儒教側からも「儒家神道」と呼ばれる合体論が多く生まれたのである。江戸初期の朱子学者である藤原惺窩にはじまり、その門人の林羅山によって、
 神道と儒教の一致を説く思想が積極的に提唱された。羅山はその著『本朝神社考』の序文において、

従来の本地垂迹説や神仏混淆説を批判し、「日本が神国であり、神武天皇が天神(あまつかみ)のあとを継ぎ、その道を広めた。
これがすなわち神道であり、王道である」とし、この王道こそはシナの聖賢の道と同一のものであることを唱えた。

この「神道即王道」の観念によって神儒一致論を主張した羅山は、その考えを『神道伝授』において一歩進め、自らその神道説を「理当心地神道」と名づけたのである。
http://www.heisei-shin.com/writings_box/religion_page/religion_26_3.html
0367<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:11:32.13ID:efa+oYvR
>>363
神社合祀令

明治の神仏分離令と神社合祀令は熊野に深い傷跡を残しました。

 とくに明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。

 明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。

 熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、合祀の対象となりやすかったのでしょう。

村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道「中辺路」の王子社までもが合祀され、廃社となりました

(田辺から本宮まで二十数社あった王子社で廃社にならずに済んだのは、なんと、八上王子と滝尻王子のみ)。

 五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子でさえ合祀されたのです。小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。

 神社合祀の嵐が熊野に吹き荒れるなか、神社合祀反対運動に立ち上がったのが南方熊楠です。

南方熊楠は下に示す8つの項目を理由に挙げて神社合祀に反対しました。

1 神社合祀は敬神の念を減殺する
2 神社合祀は民の和融を妨ぐ
3 神社合祀は地方を衰微せしむ
4 神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害する
5 神社合祀は愛国心を損ずる
6 神社合祀は土地の治安と利益に大害あり
7 神社合祀は史蹟と古伝を滅却す
8 神社合祀は天然風景と天然記念物を亡滅す

 しかしながら熊楠の奮闘もむなしく、神社合祀令により熊野(和歌山県・三重県)の神社のおよそ9割が滅却され、神社林が伐採されていまいました。


http://www.mikumano.net/keyword/jinjagosi.html
0368<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:11:32.68ID:SopgHOBY
>>365
多分w
根拠はチョンの脳内w
ただ明治になって再編されただけ
そんなテキトーに再編したなら明治になってもこれだけ多くの人から新興され続けるわけがないw

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0369<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:12:30.92ID:efa+oYvR
>>368
近くの神社の古地図みろよ。
0370<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:12:34.00ID:SopgHOBY
>>366
だからなんでてめえの根拠は個人の糞サイトなんだよw

神道を腐すコピペバカチョンにはコピペで対抗

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる[31]。
また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある[31][23]。

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。
皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。
明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。
0371<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:12:45.65ID:efa+oYvR
>>368
近くの神社の古地図みろよ。
話はそれからだよ。
0372<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:13:03.75ID:SopgHOBY
>>369
根拠はチョンの脳内w
ただ明治になって再編されただけ
そんなテキトーに再編したなら明治になってもこれだけ多くの人から信仰され続けるわけがないw

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0374<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:17:23.10ID:efa+oYvR
>>372
まずは近所の神社の古地図みろよ。
ネットにあるだろ。

話はそれからだ。

おまえの家の近くの神社の古地図の祭神といまの祭神が同じことをまず確認してから貼れよ。
0375<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:18:27.49ID:efa+oYvR
>>373
捏造の歴史は仏教にはない。
神道の歴史捏造は朝鮮なみ。
0376<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:19:22.03ID:SopgHOBY
>>375
お、図星つかれて発狂か?
自称仏教徒w
仏陀何てただの妄想ニートだよな?w

根拠はチョンの脳内w
ただ明治になって再編されただけ
そんなテキトーに再編したなら明治になってもこれだけ多くの人から信仰され続けるわけがないw

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0377<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:19:43.37ID:efa+oYvR
>>372
ソースはwikiかw
0378<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:20:13.28ID:efa+oYvR
>>376
ソースはwikiかw

無学だなw
0380<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:22:21.75ID:SopgHOBY
>>378
出典も載せてあって多くの人の眼に入って、間違ってれば突っ込みが入るwikの方が
個人のコメントもできないような糞サイトよりはずっと根拠になるわ

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0381<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:23:47.71ID:efa+oYvR
>>380
まず、二次資料より一次資料。
さらに言えばまず、近所の神社の古地図みろ。

自分の頭で考えろ。
0382<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:24:41.41ID:SopgHOBY
>>381
手前の引用なんて二次三次の個人サイトからじゃねえかw

根拠はチョンの脳内w
ただ明治になって再編されただけ
そんなテキトーに再編したなら明治になってもこれだけ多くの人から信仰され続けるわけがないw

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0383<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:25:22.14ID:efa+oYvR
神仏判然令

明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。

これが「神仏分離」政策です。掲載資料は、3月28日に発せられた「神仏判然令」と言われるものを「太政類典」という資料に採録したものです。

神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。

http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m01_1868_03.html
0384<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:25:57.59ID:efa+oYvR
>>382
ブリタニカ国際大百科事典をソースに説明してやるよw

儒家神道
江戸時代に儒教によって解釈,組織された神道説の総称。

中世の神道説は儒教や老荘,さらに陰陽五行説の術語や論理をかりることもあったが,その中枢においては仏教教理によって解釈,組織されていた。

江戸時代に入り儒教運動の隆盛をみるに及んで,仏教的潤色を洗い落し,儒教によって神道説を再組織することが企てられた。

この場合儒教のなかでも朱子学の思想が有力に作用した。朱子学は太極を根源とする理気二元論の高遠な形而上学を有するが,
これが古学派,陽明学派の非難攻撃を招来するところであったとともに,深遠な仏教哲学に対抗して神道説を再組織する要因でもあった。

林羅山の理当心地神道は天皇の道である神道は儒教における聖人の道つまり王道であるとし,太極理気説によってそれを説明した。
羅山は儒教の立場から神儒一致を唱えたが,神道の立場から神儒一致を唱えたのは吉川惟足の吉川神道 (→吉田神道 , 吉田兼倶 ) および度会延佳の伊勢神道 (度会神道) である。

前者は理学神道とみずからも称しており,いずれも儒教の教理によって自説を基礎づけているが,朱子学的色彩が濃い。
この両者をも広い意味で儒家神道に含めてもよかろう。

延佳に伊勢神道,惟足には唯一神道の伝授を受け,深い儒教の学殖をもって神儒一致を主張したのが山崎闇斎であり,その神道説を垂加神道という。

神秘性の強いその所説はこじつけも多いが,尊王愛国を説く熱情と非合理性のゆえにかえって多くの共鳴者を得て,
門流は大いに栄えた。闇斎の神道説は,古学神道と並んで近世尊王思想の理論的支柱をなして全国に普及し,幕末維新に際しては多数の行動家を輩出した。

https://kotobank.jp/word/儒家神道-77650
0385<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:26:27.97ID:SopgHOBY
>>383
仏教は江戸時代特権持ってて嫌われてて庶民もそれに協力したんだがなw

そんなに原始宗教が偉いなら仏陀の考え通りに生きろよチョン

仏陀「俺もニートだからおまえらもニートになれ」

あ、実際ニートチョンだもんな、おまえw
0386<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:27:21.42ID:SopgHOBY
>>384
そういいながら、辞書の二次引用w
バカチョンらしいダブスタだなw

根拠はチョンの脳内w
ただ明治になって再編されただけ
そんなテキトーに再編したなら明治になってもこれだけ多くの人から信仰され続けるわけがないw

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0388<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:29:54.61ID:SopgHOBY
>>387
なんで手前の引用する糞論文いちいち見なきゃいけないんだ?

仏教は江戸時代特権持ってて嫌われてて庶民もそれに協力したんだがなw

そんなに原始宗教が偉いなら仏陀の考え通りに生きろよチョン

仏陀「俺もニートだからおまえらもニートになれ」

あ、実際ニートチョンだもんな、おまえw
0389<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:30:08.25ID:IMlVE/ds
 


議員が、公人として特定の宗教施設に礼拝するなど言語道断ではある。

っが、他国がそれをどうのこうの言うのもおかしい。


 
0391<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:32:47.35ID:efa+oYvR
>>388
wikiしか読まないとは白痴だな。
0392<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:34:01.94ID:SopgHOBY
>>391
てめえの糞論文つまみ食いよりはましだなw

出典も載せてあって多くの人の眼に入って、間違ってれば突っ込みが入るwikの方が
個人のコメントもできないような糞サイトよりはずっと根拠になるわ

神道が明治にできただあ?笑かすなバカチョンw

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0393<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:34:05.12ID:5jUmXzfe
議員に踏み絵ふますためにも、インターネット参拝を作って、
忙しくていけなかった議員も、その旨が知れるようにすべき

自民党内にも保守騙しがたくさんいるから
0394<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:42:46.75ID:efa+oYvR
>>392
じゃあ、靖国の神道としての裏付けはwikiでもwikiに引用されてる論文でもよいが何処にあるんだ?
0395<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:43:27.38ID:SopgHOBY
>>394
リンク先の出典でもいいから見ろよ

神道の研究
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った[23]。
そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。
一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった[33]。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。
神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。[34]。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。
その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。
第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。[35]。
0396<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:43:35.83ID:Pkc2gRhA
「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の所属議員
「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」

なんと情けない名称であることか…
集団で、こそこそ参拝かよ
0398<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
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2017/12/09(土) 12:44:13.68ID:efa+oYvR
>>392
実は靖国自身も神道との繋がりはわかっていない。

ロンドン大学日本宗教研究センタ所長 
ジョン ブリーンの靖国の解説は靖国が宗教というより適当な儀式をやっているだけの新興宗教ということがよくわかる。



ここで、霊璽奉安祭と秋季例大祭にちょっと話を戻しますが、それらの神学的意義について、靖国の神職の友人に何度か尋ねたことがあります。 


これはキリスト教圏で生まれ育った私ですから、こういう疑問が湧くこと自体仕方ないんですが、「霊璽奉安祭の場合は、相殿(あいどの)にずっと宿っていた御霊と、
内々殿に移行したその御霊とどう違うのか?」とか、 
「英霊が存在するあの世とこの世とがどう結びつくのか?」とか、
それから、「靖国の祭神と古事記・日本書紀に出てくる神々との関係はどうか?」とか、 

そのようなことについて尋ねたことがありますけど、私の友人の神職は、必ず「自分が不勉強でちょっと解りません」などと答えてくれるんです。 

その神職の方は、解らないのではなくて、これらのような神学的な勉強する必要を感じないようです。
これは当然かもしれませんけど、結論的に言えば、靖国はあんまり神学と関係のないところだということが判りました。 
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen13.htm
0399<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん
垢版 |
2017/12/09(土) 12:45:05.66ID:efa+oYvR
>>395
ねーよ。

実は靖国自身も神道との繋がりはわかっていない。

ロンドン大学日本宗教研究センタ所長 
ジョン ブリーンの靖国の解説は靖国が宗教というより適当な儀式をやっているだけの新興宗教ということがよくわかる。



ここで、霊璽奉安祭と秋季例大祭にちょっと話を戻しますが、それらの神学的意義について、靖国の神職の友人に何度か尋ねたことがあります。 


これはキリスト教圏で生まれ育った私ですから、こういう疑問が湧くこと自体仕方ないんですが、「霊璽奉安祭の場合は、相殿(あいどの)にずっと宿っていた御霊と、
内々殿に移行したその御霊とどう違うのか?」とか、 
「英霊が存在するあの世とこの世とがどう結びつくのか?」とか、
それから、「靖国の祭神と古事記・日本書紀に出てくる神々との関係はどうか?」とか、 

そのようなことについて尋ねたことがありますけど、私の友人の神職は、必ず「自分が不勉強でちょっと解りません」などと答えてくれるんです。 

その神職の方は、解らないのではなくて、これらのような神学的な勉強する必要を感じないようです。
これは当然かもしれませんけど、結論的に言えば、靖国はあんまり神学と関係のないところだということが判りました。 
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen13.htm
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